マタイによる福音書20章29-34節、イザヤ書11章1-10節「無理解を照らす心の光」

25/9/14長寿祝福礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書20章29-34節、イザヤ書11章1-10節

「無理解を照らす心の光」

人は、この憐れみによって救われます。「イエス様が深く憐れんで」と訳されたのは「はらわたがわななき、胸が苦しくなり」という言葉です。既に何度も繰返し出た、群衆に対して主が持たれた感情や態度、慈しみとも言える、人となられた神様を理解するための、鍵の言葉です。

同じく繰返し叫ばれた「ダビデの子」も、この福音書で真っ先に出た鍵の言葉です。約束の救い主ダビデの子イエス様の系図から始まって、ついに次章は受難週という重要な局面で、ダビデの子よと言わば合図が鳴る!神様の約束の救いは、憐れみ深い救いだと、私たちの目が開かれ、十字架の憐れみの主が見えるように備えられる。それがこの御言葉です。

そのイエス様に対する無理解が、目の見えない人たちを「叱りつけて、黙らせようとした」という行動に繋がってしまったと御言葉は教えます。

「叱った」。前にイエス様のもとに幼子を連れて来た人々を弟子たちが「叱った」、それと同じ言葉(19:13)。元の意味は「相手を価値評価した」という言葉です。大体は相手を下に見て、叱ってしまうからでしょうか。低い価値しかないのにと、自分勝手に価値判断してしまう。人に対してもですが、私は高校の修学旅行でディズニーランドに行った時、入口で配られたチケットを、もういらんろ、邪魔と価値判断しトイレのごみ箱に捨てた後、それないと何の乗り物にも乗れんと知り大慌てでトイレに戻ったことがあります(笑)。すごい無理解!というか話を聴いてない。

この群衆も、叫ばれたら邪魔と価値評価したんでしょうか。あるいは、この方を誰と心得る?と思って、黙らせようとしたのなら、イエス様がどんな救い主であるかを全く誤解して、心得てなかったのです。十字架の神様に対する価値評価が、余りに人間的過ぎる、無理解があった。

それに対して目の見えなかった人たちは、聖書が約束するダビデの子、主は、憐れみ深い方であると知っていたのか。知ってなかったとしても、そうあって欲しいと求めておったのだと思います。たとえ人は私たちを憐れまなくても、私たちをダビデの子によって救うと約束しておられる神様なら、人は約束を破るけど、神様は約束を果たし憐れんで下さるに違いないと求めた。人からは黙れと止められても止まらない、憐れみの求め訴えを、主に!聴いて欲しかった。痛みを知って欲しかった。主は、その求めは義しいと手を伸ばされ「触れて」憐れんで下さるのです。

もし、憐れんでなどくれるかと値踏みして予測しておったら、叫びはせんかったでしょう。あるいは叫んだら一緒に誰か、憐れんで下さいと主に叫んでくれると予測をしたなら、すごい裏切られたのです。でも人々の反応は予測できたかもしれません。今までも小さくなっていないと怒られたことがあったかもしれません。相手は自分を見ているのに、自分は相手が見えないのは怖いと思います。何をされるか分からないし、防ぎようがない。勝ち目がない。静かにしておったほうが…。

でもイエス様に対しては叫んだ。憐れんで下さい!と叫び求められた。憐れみ深い方だという話を伝え聞いたのか。でも彼らが聴いた同じ話を、おそらく群衆も聞いたのです。なのに憐れみを求めた二人を黙らせようとしたのは、聴き方が、だいぶ違ったのです。主の憐れみを求めて聴くのと、憐れみを求めず聴く違いが、主に憐れみを求める叫びと、それを黙らせようとする違いとなった。何でそんなにも違ったのか。

日本では、憐れみを求めることは、逆に情けないと思われているかもしれません。けど世界でも、憐れみを求めない態度から相手を軽んじて黙らせようとする。例えば戦争が終わらないのもそのせいではないのか。相手への理解が無いからか、憐れみが無いからか。あるいはこの群衆のように神様を、知っているつもりで、知らないからじゃないか

そもそも憐れみを求めるのは、苦しみがあるからです。止められない苦しみから祈りもする。神様、私の苦しみを知って下さい、痛みを心で分かち合うほどに知って下さり、これを過ぎ去らせて下さいと求める。それが憐れんで下さいと、止められても止められない叫びだと思います。

その叫びを聴いて、主は立ち止まって下さる神様です。心を動かされ、はらわたがわなないて苦しむほど、痛みで理解して下さる神様なのです。だから同じ人となられました。私たちの代表者、主となられ、皆の罪と裁きを負われて、十字架で身代わりに裁かれ抜いて、罪を償って死んで下さった憐れみ深い主が、憐れみを求めずに苦しめ、また苦しめられる、罪と滅びから私たちを救い出すと、約束を守って来て下さった神様だと、御言葉は保証するのです。この主に、憐れみを求めて叫んでよい。主は私たちを「深く憐れんで」その御手で触れて下さり救って下さるからと。

もう光は見れないと思っていた目に触れた、その手は、暖かかったと思います。涙が出たかもしれません。涙は出なくても、光があふれて、神様が共におられる光ある世界が目にも心にも飛び込んできて、この方にお従いしよう、イエス様、私の主よ、私の神様と、喜びと希望と命があふれた。それが私たちの憐れみ深い、十字架の、主イエス様なのです。