マタイによる福音書20章1-16節、詩編118篇1-4節「驚きの善の父に招かれ」

25/8/24主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書20章1-16節、詩編118篇1-4節

「驚きの善の父に招かれ」

「先にいる者が後になる」。今日の御言葉の直前でも「先にいる多くの者が後になり」と言われます。何故か。1節の直訳は「何故なら天の国(天の父のご支配)は、彼の葡萄園に働き人を雇い入れるため夜明けに出て行った一家の主人に似ているからだ」。だから神様の救いのご支配は、世の中の人間の支配で考える順番と逆で、自分はこんなにやりゆうにと、自分に支配され考えると不満になり父から遠のく。だから主は父の愛のご支配の中で!共に!生きられるよう丁寧に教えられます。

これは主に信頼し従う人が何故、百倍もの報いを受けるか?天の父のご支配の何が?その報いを百倍にするかの説き明かしとも言えます。

注意して欲しいのは、ここでの報いが父との関係の中でのみ扱われていることです。罪の報いは何も言われていない。自分中心に支配された人間の思い・考え方が不平として出ても!「友よ」と雇用関係を越えた信頼関係の名で呼ばれて、主に罪を負われ赦された救いのご支配の中で、確かに父のため働いた働きの報いが与えられます。救いとは別に!です。

でも父のご支配を誤解したままだと、順でイメージされる父との距離が遠いままで、不満にならないか。それは、どんな誤解か。人は自分の行いの大きさが報いの基準だと思う。それが4節の「義しい報い」だと。大きさに目を引かれる。行いの善悪も、大きさで計算するのではないか。自分の罪や悪は小さいほうと、救いに求められる義しさを比較で考える。神様の義は満たしてなくても!譬えるならボーリングで全てストライクでなくても!ポイントが高くてミスが少なくて合計の得点が上から順に、ここまでが入賞という考え方を神様もしゆうろと。いや、神様のお考え、お気持ちらあ考えず、天国に入る基準は何かと入り方だけを思ったのが、前の頁16節で「永遠の命を得るためには、どんなを行えば」と問うた、父との関係の善を思わない、人間の思い(16:23)ではなかったか。

もし天国に入るためと誤解した善を言わばボーリングの技術のように、生き方の技術、人間関係の技術、宗教的な技術と思うなら。こう言えば分かりよいでしょうか。私たち、愛されるなら愛し方の技術が高い人に愛されたいでしょうか?その人の気持ちや、その人との関係ではなく、ポイントの高い愛し方や善を、神は評価すると思うでしょうか?もし!ポイントの高い天国の入り方を行えば、天国への入賞順位の先のほうに並べると思うなら、です。ちゃんと雇ってもらえるよう早く起き備えて、それが雇う側も、雇うべき善い労働者だと考えているだろう、何故なら人間的ポイントが高い大きいほうが、という人間の思いに支配されたら。人間として低く見える小さな1時間だけ働いた人が、大きく働いたと自分には見える自分と同じ報いを受けることは、悪!に見えて、不平が出る。

それは、だから主が繰返される「天の国」天の父のご支配が、父との関係の善による、愛と信頼関係のご支配だと、見えないからでしょう。だから主は1節で、父のご支配は、こういう「一家の主人に似ている」と言われた。こういうルールや方法に似ているではない!この家の主人の気持ちが分かれば、父のご支配が分かるからと。父の気持ちを分かって欲しくて、父との善い信頼関係に生きて欲しくて語られるのです。

「唯お一人善い」(19:17)父を信頼し、その招きに応えて洗礼を受け、善い愛と信頼の家族関係に入って生きる。それが父のご支配と分かれば、善を行うから報われて救われるのでないと分かる。順番が全く逆だと!それが先と後の順番の逆向きとも無関係ではないのです。先ず父の恵みによって受け入れられる父の関係の義しさに、ありがとうございますと自分のこととして感謝できるから、この善の関係に隣人と共に生きるのが義しいと、我らの父のもとで、我らのこととして思える。(5:43-48)。

それが分からないと、自分の義が満たされなくて不満に思う。「気前の良さをねたむのか」と訳された言葉の直訳は「わたしがであるから、あなたの目が悪いのか」。悪い。善と逆の目で見ていると主は言われます。既に「体のともし火は目である。だから…もしあなたの目が悪ければ、全身が暗い」と主は言われました(6:22f)。信頼関係の義より自分が先に出ると、目が悪くなって、自分が損した自分が自分がと、父の関係の善のご支配が見えなくなってしまう。

そしたら誰も雇ってくれない人の気持ちも見えない。あるいは雇われたけど、何な働けんじゃか、できんならできんと最初に言わん方が悪いと、人間の支配で自己責任にされて、追い返されたのでしょうか。

でも父のご支配は、その人を捜して見つけるために、その人のもとに来たのです。人間の支配で考えたら何ちゃあ働けんように見える小さな人を、神様は、わたしの目に、あなたは決して小さくない。わたしは主、あなたの神、あなたを自分自分の大きさの奴隷の家から導き出した神であると、唯一人間を償い赦し神様との永遠の家族関係に受け入れる善!御子の永遠の犠牲によって、どんな小さな者であっても、わたしは恵みを与えたい!と望んで下さる。だから父の関係のご支配に生きるのです。