マタイによる福音書19章23-30節、ダニエル書7章13-14節「今は失って悲しくても」

25/8/17主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書19章23-30節、ダニエル書7章13-14節

「今は失って悲しくても」

この御言葉も、急所は主が「天の国」「神の国」と繰返し強調された、神様の救いのご支配、神様との信頼関係を求め、入ることです。既に主は「何よりも先ず神の国と神の義を求めなさい」と言われました(6:33)。ここでもまた「先に」「後に」と、順番の問題が問われます。

飛行機に乗る順や、コンサート会場に入る席順もでしょうか。先頭は「金持ち」直訳は「たくさん持ち」。金に限らず、例えばファリサイ派も、沢山の宗教的熱心さ持ち、宗教的正しさ持ちと言えます。でも入るのは難しい。沢山持ちは、何を先ず求めるかを狂わせやすいから「先にいる多くの者が後になる」。主から離れてしまうのです。自分の宗教的正しさを先ず求めたら、神様との信頼関係のご支配から遠く離れ、その入口が小さく見えて。主は「狭い門から入りなさい」(7:13)と言われましたが、父との関係を、どれほど遠い順に置くと針の穴ほどに小さくなるのか。そこに父との関係の順が遠い沢山持ちの大きな自分も見えるのです。

では主の弟子たちはどうか?私たちは「何もかも捨てて」と言います。直訳は「全て後にして(手放して)」。家族を捨てたのではない。99匹の羊を後に残したように関係を切ってはない。先ず主を選んだという意味です。主を私の主!としたのです。でも弟子たちは、自分は主に従いはしたけど、家族を捨てても持ち物を全て売り払ってもない。でも金持ちが全て売り払うことが、罪を償って救われる条件だと、誤解したのなら、自分も完全に神様に捧げて償わないかんが?無理と思ったのでしょうか。自分の完全な損失が償いの条件なら誰も救われんと、自分が思う苦しみを基準に無理と。そうして弟子たちさえ「神様のことを思わず、人間のことを思って」、神様との信頼関係のご支配が、驚くほど分からんのです。

それで主は、それがあなたの思う救いなら、確かに人間は、どれほど大きな沢山持ちも、それで自分の犯した罪の完全な償いを支払うことは、できない。人間は自分で自分を救うことはできないと明確にされます。「が!神様は何でもできる」と、神様のことを思うよう導かれるのです

そして御言葉は、そもそも何故こんな誤解をするかを解きほぐします。神様のために何かをすることを、人は自分のための交換条件と思うからじゃないか。それが神様のことを思わず、人間のことを思うことの根底にあるのではないか。これをしたら、これが返って来る。当然だろう。でもそうでないなら、やっても自分にメリットがない。そこには信頼の関係も愛もない。自分の見返りを求めているだけ。関係は破かれる。

その罪の破れを、神様は完全な人となられて、神様の命を犠牲にして、完全に償うことができる。その罪人を信頼関係の中に受け入れて家族として共に生きることができる!「神様は何でもできる」と主は言われる。

だからです。自分はこんなにも手放してきたからメリットがあるがは当然と思う弟子たちを、主は柔和に受け入れ、誤解を責める代わりに、整理をして下さるのが後半の御言葉です。しかも「はっきり言っておく」とダニエル書で預言された「人の子」の権威によって!これが十字架の神様のご支配だと、まるで憲法発布のように強調されて、報い救いの違いを整理して教えつつ、弟子たちを励まし慰められます。

「報い」と「救い」は両方とも神様との関係の中で与えられますが、「報い」は、何かしたことで返って来るのが報いです。原因と結果とも言える。罪も報いを受ける。罰が返って来る。人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。そして主は「わたしの名のために」家族など大切な羊たちを「後に残し」迷い出た羊を捜すために来たわたしに先ず従い「天の国」の種を蒔く者は、前に種蒔きの譬えで言われたように「百倍」もの実を結ぶ「報いを受ける」と約束されます(13:23)。それが自分のためにでなく、主のために神様の畑に蒔かれた人生が受ける報いです。

私たちは誰のため、誰の畑に命を種蒔いているのか。つまり誰を一番として、誰を自分の人生を献げる主として生きているか。そこには必ず報いがある。「わたしに従ってきたのだから」と主は言われるのです。

そして、同じ主との関係の中に含まれながら「永遠の命を受け継ぐ」と区別されるのが、親子関係の中で、言わば親の遺産として全くの関係の故に受け継ぐ救いです。受け継ぐのは何かしたからではない。それは報いであって、救いは報いでも、何かの交換条件として獲得するのでもない。もし敢えて交換条件と言うなら、先に言った遺産と同じで、神様が完全な人となられて献げられた命と交換に、救いは用意されたのです。その遺産を誰が受けるのか。愛と信頼の関係で結ばれた家族です。でも私には愛も信頼も足らんからと思うなら、それが人間のことを思う交換条件です。捨てるなら、その人間の誤解を、自分が正しいと思う誤解を捨てて、そんな私たちを、自分が犠牲になってでも償い受け入れ愛して救って下さる十字架の神様を、私の主、私の神様と、先ず信頼し洗礼を受ければよい。そこに御子をくださった父のご支配の門は大きく開かれているからです。この恵みの御子を人間は父からいただいているのです。