25/8/10主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書19章16-26節、アモス書5章4-6節
「何が命を制限するのか」
「永遠の命を持つためには、どんな善いことを行えば」。言わば高得点の必ず行わないかん善いことがあって、それらを行ったら、交換条件で永遠の命を持つと、当時も今も多くの人が誤解をしていた。その誤解に主は、十字架で死なれる善い神様として、一つ一つ答えてゆかれます。
「何故わたしに尋ねるのか」と問い返すのは、何故なら、わたしが、あなたを永遠の命に導き入れるあなたの神だから「わたしに従いなさい」わたしは主、あなたを救う「善」を行う、あなたの神だからと、知って欲しいからです。その神様の「善さ」から、後の全部が導かれます。
「善い方はおひとり」つまり神様のみだと言われるのは、つまり何が善で何が悪かを誰がお決めになられるのかと問えば分かりよいでしょう。譬えるなら家を建てる大工さんたちが、1mの長さを個人個人で決めた家は倒壊します。同様に同じ世界に生きる個人個人が、これが善だ、いやそれは悪だと、自分を信じ自分を捨てない世界も人生も、倒壊します。
世界を創られた神様に従わず歪み倒壊していくその命を、でも神様がご自分を犠牲にされて償われて赦されて、悪と滅びから人を救われます。その神様との信頼関係の中で共に歩む愛の命。これが善だ、これに歩めと与えられたのが「掟」、十戒を代表とする神の家族のルールです。
でも人は「永遠の命を得るには」と、まるで権利や尽きない生命力のように命をモノ扱いして誤解しやすい。それで主は敢えて言い換えます。17節3行目の直訳は「もし命の中に入りたいなら、掟を守りなさい。」
すぐ前の幼子たちの命を思えば分かりますが、命は関係の中にある。それを自分の力で得たり支配できると思うなら、命の外で、関係の外で、天の父との関係の外にいて、この命も自分で得たと誤解してはいないか。ことわざで水を得た魚と言うけど、水を持っても、水の中に入らないと魚は死ぬ。人も同じです。わたしとの信頼関係の中に入りなさいと主は言われます。その関係の中で、命の掟は、関係の掟だとも分かるのです。殺すな、姦淫するな…全部関係。共に生きる愛と信頼の関係の掟です。それを破るのが、命の外、死と滅びへと人を迷い出させる、罪です。
この掟を聴いて、5章の山上の説教が身に着いている人は、心の中での殺人と姦淫を思い出しますから、自分の罪を自覚すると思います。でも知らない人は、殺人?犯してないと思うのは納得する。ただ皆さん、え?隣人を自分のように愛してきたが?と、驚かなかったでしょうか。それともこの人、分かっていて偽証しているのでしょうか?
おそらく本当に神様のお考えもお気持ちも分かってないのでしょう。「まだ何か欠けているでしょうか?」と思えるのは、自己評価の基準が、神様の基準と全くズレているからです。先に言った大工の譬えで言えば、この人の個人的1mは、関係の掟の1mからすると本当は1cm。でも1cmで、自分は1mの善を満たしていると誤解していた。しかし、です。人は自己満足で本当に命が満たされていると思えるのか。そんな自分の命に、違和感と不安を覚えるから、主のもとに命を求めに来たのでしょう。
その自己評価の誤解を捨てさせるために主が言われたのが「もし完全になりたいのなら」。これも5章で隣人愛を説かれた時「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と求められた命の目標です。命の外で自分を求めるのでなく、天の父との信頼関係の命を求めるなら、それが愛と信頼の目標に違いないのです。
でもそこに至る道は、得ることではなく、自分を捨てることだと主は言われます。「持ち物」の直訳は「自分の手元に存在するようになった、所有」という言葉です。命も、自分で得たのではない所有と言えますが、この人は、それを所有でなく「財産」直訳は「獲得したもの」と思った。だから捨てられなくて主から離れて行く。その理由を直訳で「何故なら、多くの獲得したものを持っていることが、彼だったから」と言うのです。
自分は持っている。自分で獲得した。自分で!その態度のまま、もし「わたしに従いなさい」とだけ聞いたら、自分で従って獲得したと誤解せんでしょうか。愛も信頼関係も、自分で獲得したと誤解したままだと、きっとお分かりと思います、愛と信頼に生きることはできない。だから先ず、その自分を捨てなさい、いや天の父の宝としてお献げしなさいと主は言われます。自分自分の財産は朽ちるから。自分のことだけ考えて、神様のことを思ってないから「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と弟子たちに言われた、同じ招き、天の父の救いのご支配への招きを主は繰返されます(16:24)。
何でそんなにも繰返されるのか。捨てても捨てようと思っても自分を捨てられないからでしょう。でも捨てないと関係の命を破いて、命の外に出て、愛と信頼関係の完全に生きられない。愛の関係を守りたいのに、人間は守ることができない。だからその不完全な人間を、わたしが完全に救うと、ご自分を完全に捨てられて罪を背負って死ぬことさえできる、十字架の神様に信頼し従う。それが天の国、父の命のご支配だからです。