25/8/3主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書19章13-15節、エゼキエル書34章17-23節
「小さき者を愛される父」
毎年11月の幼児祝福礼拝で、よく読まれる御言葉の一つです。子供の上に手を置いて祈ってほしい。医学・衛生学が今よりはるかに未発達で子供の死亡率が高く、我が子を守れなかった、その時代に、もし自分に、すぐ熱の出る子供がいたらと想像すれば、人々が何故イエス様のもとに来たか、お分かりになると思います。単に子供を抱えているのではない。子供の生き死にの問題を抱えて、イエス様のもとに来たのです。
なのに弟子たちはその人々を「叱った」直訳は「相手を価値評価した」。それで「課税する」とか「戒める」と言われる言葉です。何で叱ったか。その人々の抱えている子供たちや願いを、見積もって、低い価値評価をしたからでしょう。低いのにと叱った。よく分かることだと思います。
でも主は弟子たちに既にこう言われたのです。一頁前にめくり上18章10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。
弟子たちは何で叱ったか。気をつけてなかったから。これもまたよく分かる話ではないでしょうか。頭で知っても分かってもいたけど、つい自分の身に染み付いた今までの態度がスッと出てしまう。または本当に分かってなかったから態度に出たということも、あるのかもしれません。
まずは頭で分かってないと、例えば分数の計算とか、分かってないと、答えを暗記しても、応用が利かない。つまり、これはこう解けば良い、何故なら!という、何故ならが分かってないと、何故?そうするのかが分からない。すると今までやってきた、これはこうする、何故なら私は、こうしてきたから!が理由となって、例えばコラと叱ってしまう。
すぐ前の夫婦関係の問題においても、3節の直訳は「あらゆる理由で」理由があったら離縁してよいかと問うたファリサイ派に、イエス様は、人間の理由と、神様の理由は全く違うと教えられました。言い換えれば、人間の何故ならと神様の何故ならは全く違う。だから「天の国」神様のご支配、つまり神様は、このように私たちをご支配なさる、何故ならと、ずっと天の父のご支配を教え続けて、ここでも、これからも教えられる。特に「弟子たち」に、教会に、です。
ご自分の弟子たちが分かってはいなかったことが、分かってしまった。そこで主は、どうされるか?あきらめないで、何度も教え直されます。
人間の支配では、だって分からん人が悪いという理由をつけて、怒るだけとか、教え続けるのは愛の忍耐がいるから、もう仕方ないちや、で済ませることも、私自身、あると思います。だけど主は自己責任にせず、むしろその私たちを背負われて、あきらめないで、「何故なら」と繰返し「天の国」神様のご支配を、教え直されます。
ここでも何故「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と言われたか。直訳は「何故なら」!「天の国は(天の父のご支配は)このような者たちのものだから」。小さな子供たちだけではない。どんな小さな者たちも、天の父のまなざしの中で軽んじられてよい人など、一人もいないから。むしろ何故、ダメだと思うのか。どんな理由でか。それをダメと思う支配に自分が縛られているからだと分かるなら、その自分が、このままではダメだ、神様、助けて下さいと思うなら、イエス様が最初から伝えて来られた、この福音に戻るのです。「悔い改めなさい(神様へと方向転換しなさい)、何故なら!天の国は(神様の憐れみのご支配は)近づいたから」(4:17)。遠い死後の話ではないから。わたしはあなたの近くにいる、あなたの王、あなたの羊飼い、あなたの救い主だから、ここにあなたへの父の支配は来てないだろうか。遠いだろうか。わたしは主、あなたと共にいる神だと、その初めから!主は「御国の福音」を伝え続けて来られて、これからもなのです。
父のご支配の態度が弟子たちに身に着くまで、あきらめず教え続けられるのは、では何故か。何故なら、教会が、父のご支配の態度に生きて、父の憐れみのご支配を人々に証しすることで、人々は「御国の福音」を実際に知るからです(4:23、9:35、24:14!)。
そして実際に知ると、どうなるかを想像したら、では私自身は実際に知っているかが、我が事として分かると思います。実際に知ると、どうなるか。イエス様のもとに行くのでしょう。そこに人間の理由があって尚、そこに我が子の生き死にを抱えて、主のもとに来た親たちのように、愛する者の生き死にが、我が事となっているから、イエス様のもとに行くし、連れて行きたいと、その人の生き死にを背負うようにして祈るのでしょう。人の生き死にの問題が、我が事になってないと、人にも人生にも、人間の支配で向き合ってしまう。だからこの御言葉なのでしょう。人に向き合う時、これは、この人の生き死にの問題だと、我が事として分かっていたら、どんな人も軽んじてはならないと気をつける。いや、その人の生き死にが気になる。気にしたくなくても気になる。我が事になるとは、そういうことでしょう。人の生き死にを本当に我が事とされ、この命に生きよと死なれた神様のご支配に、だから皆で生きるのです。