マタイによる福音書18章18-20節、詩編126篇「愛を祈るシンフォニー」

25/7/13主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書18章18-20節、詩編126篇

「愛を祈るシンフォニー」

約30年前、私が受洗した教会は礼拝後、祈って欲しい人のため奉仕者が前に出て、私も何度も祈っていただきました。自分ではどうにもならない苦しみを一緒に祈ってもらい、涙したことも一度ではありません。説教題を愛を祈るシンフォニーとしました。映画の題みたいですが(笑)。19節で「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」。「心を一つに」と訳された言葉が、シンフォニーの元の言葉「声を共にする」という言葉です。音楽だと交響曲。響きが交わり合って一つの曲となる。同じように、教会でイエス様の名を共に呼ぶ者たちが、二人で良い。多くないとダメということはない。二人で良い。心が一つに響く祈りを共に捧げてごらん。わたしの天の父は、その結果が起こるようにご支配くださる。わたしもそこに、二人と共にいて、一緒に執り成しているからと約束されるのです。

共に祈る。先にも主の祈りを共に祈りました。声を共に祈りました。イエス様の名によって集まって、天にまします我らの父よと、天の父に、愛のシンフォニーを捧げた。どんなふうに響いたと思われるでしょうか。もし人間の耳あるいは心に響かなかった声だったとしても、父の心には、全く違った響きとして届く。我が子が「我らの父よ」と共に!呼んでいるのです。その父のお気持ちが、人間の心にも響く時、兄弟姉妹で共に祈るというイメージが変わってくる。そこで我らの父の御前にイエス様と共に集まって!祈っているのだというイメージに。変わって欲しい。家族が心を共に響かせ祈ることを、どんなに天の父が求めておられるか。この御言葉を聴く私たち一人一人の、共に祈るという思いが、父の求めの中で変わって欲しくて、二回「はっきり言っておく」と強調されます。交響曲の大事なところで、続けてシンバルが鳴り響くように、あなたの心が、ここで!ここでも!動いて欲しいというキーワードの響きです。

「はっきり言っておく」。最初のシンバルの後に言われるのは、一枚前に頁をめくった16章19節の「天の国の鍵」が教会には与えられているという再強調です。鍵は複数形です。天国の門というイメージではない。「天の国」「天の父のご支配」が、教会を通して行われるから用いよと。御国を来たらせる祈りを、二人でいい、共に祈れ。心の響きを共にして、父に祈れ。「天の父のご支配の鍵」を、この地上で使うのだと言われる。

どこでか。先の16章で鍵が渡された直後にも、神様のご支配を思わず、人間のことを思うペトロに主が、サタン、わたしの後ろに退け、わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと言われた地上で、父のご支配を求めよ。わたしが悪も罪も死も弱さも何もかも一緒に背負って共にいるから!と。もう今日の御言葉になってしまいましたが、イエス様を信じて結ばれたのに、人間のことを思って、こうやって救うが神様やないが?と思いたい人間の支配に、悪に捕らわれて迷い出る私たちを、イエス様にお従いする父のご支配に!連れ帰ってください(詩126)と、共に求め祈り、鍵を用いるのです。

19節「はっきり言っておく」後の直訳は「もし!あなたがたの二人が地上で声を共にするなら、どんなことでも、そのことを、もし!求めるなら、わたしの天の父の御前で、そのことは起こされて起こるだろう」。

「だろう」と訳したのは未来形だからです。すぐにではない。だからこそ共に、一人では心折れそうな声を共にして祈る。その鍵を天の父も大事に回されて「そのことは起こされて起こる」。日本語にない中動態という文法ですが、譬えるなら私たちが礼拝に来たのは自分の意志だけで来たのか。どこからその思いが来たのか。先のペトロのように、神様のことを思わず、人間の思い、人間の支配に捕らわれていたら、疑いなく自分でと思う。その悪から、だから救い出したまえとイエス様と一緒に祈るその鍵を父が用いられ、父から聖霊様が注がれる地上で、父からの受け身で悪から救い出されるご支配が「起こされて起こる」。それを恵みとも言う。神様が恵みを注いで私たちの内に神様を思う思いを起こして下さらなかったら、悪の支配に捕らわれたままの人間だからこそ、神様を思うことが起こされて起こる。それがどのように起こるかさえ人間は支配したい。こう祈ったのにと祈りの結果を支配したいと思う私たちを、神様が死ぬほど憐れんで下さって、神様を求める思い、ごめんなさいと、自分の道から神様に帰る思いを与えて下さったから私たちはここにいる。恵みによって!共に!我らの父の御前にいる。永遠の御子を、失われた家族を救うため犠牲にされた我らの父を礼拝するために、その父の御心が地上で「起こされて起こる」ために!共に祈るのです。父のご支配の鍵を、一緒に、我らの父よと声を共にして、そして実際に!共に祈る。

先の19節の直訳は、心の響きを共にするだけではなく「それをもし!求めるなら」つまり本当に二人で祈りなさいと、主は教会に求められる。そこにわたしもいるからと約束されるほどの我らの父のご支配が、二人で共に祈る地上に、起こされて起こるから。そこに御国は来るからです。