25/4/13棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書16章5-12節、イザヤ書53章
「私利でなく信頼関係を」
正直に告白しますと、私は礼拝で献げる献金の用意を再々忘れます。献金奉仕者は先ず私から始めますから、皆さんも見たことあるかもしれません。奉仕者が来たら、小さく手を挙げ頭を下げ、私が忘れたことを、悟ってもらうようにします。が、もし悟ってくれず、ずっと待ってたら、まだ分からないのか(笑)とは言わず、後でと(小さく)言うでしょう。
忘れるのです。礼拝に時間の余裕を持って来てと注意されたら、返す言葉もない。でも、もし!その注意を、感謝と献身がないから忘れるのだと責められているように、もし私が思うなら、注意してくれた方への信頼が小さいから、責められゆうと思うのでしょう。
今日の御言葉は「信仰の薄い者」サンドイッチだと前に申しました。少し前、主から目を逸らし海に沈み始めたペトロを主がすぐに捕まえて、直訳は「信頼の小さい者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。もっと信頼して良い、わたしは主、あなたの神なんだから、それがわたしだろうと、私たちに信頼を求められる主のお気持ちが伝わってくる言葉です。
自分が信じるのが信仰ではない。むしろ相手への信頼、しかも困った時の神頼みではない、固い永遠の信頼関係で結ばれたい!と先ず神様が求められるから、はいと信頼し、神の家族の信頼関係に結ばれる洗礼を受けて、信頼関係に生きる。それが信仰です。ただ、その関係を実際に歩む生活の中で、例えば、忘れたき責めゆうがやと身構える姿とかに、こちら側からの、実際の信頼の姿が、具体的に現れる。
それが、舟を降りる時にパンの籠がなくて、もう何で?とか言い合う弟子たちの姿に現れたのでしょう。「信頼の小さい者たちよ」という言葉、既に山上の説教で「食べ物のことで思い悩むな、あなたがたの天の父は、あなたがたの必要をご存じだ」と、父との関係を教えられた時に、主がおっしゃった言葉です(6:25ff)。だから主は、食べ物なら大丈夫。舟で渡る前もそうやったろう?むしろ信頼関係を壊す自分自分になる態度に気を付けなさい。神様も人もモノ扱いするファリサイ派とサドカイ派の、自己責任の生活態度は、パン種・イースト菌のように人生を自分自分で膨らませて壊すからと。
でも、そうやって心を配り心配される主のお気持ちより、忘れた自分のショックが大き過ぎたのか。主にまで日毎の糧でストレスを与えたと、自分がそうだから思ったのか。ほら、言われたやかと裁き合いさえしたのかもしれません。そしたら「まだ、分からないのか」と言われるのは当然でしょう。「まだ、わたしのことが分からないのか」と言い換えたら、もっと分かりよいのかもしれません。
「覚えてないのか」。聖餐式で「わたしを記念して」わたしが誰であるか忘れないで欲しい。わたしは死ぬほどあなたを心配しているからと。罪も裁きも神様も忘れてしまう私たちへの、神様のお気持ちと心配を、だから十字架に付かれる深い憐れみを、覚えて欲しくて言われるのです。
このことは、お金のことにも当てはまると思います。先週も長老会で今年度予算案を立てて、計算だけだと、このままではやっていけない。計算だけだと。なら神様を計算に入れたらよいのか。20年前、会堂建築援助の申請書に、神様が満たして下さいますと鈴木先生が書いて(笑)、提出し直してと言われました。だって本当だものと鈴木先生は苦笑いしてましたが、神様との信頼関係を、数字にすることはできない、いや、数字にしたら、信頼の関係が歪みやすいから、しないのではないか。
人間関係も。皆さんを頭数に計算してますからと言われたら、責任感を刺激される人もおると思いますが、逆に私は数なのかと思う人もいる。共に生きる信頼関係の距離感や、信頼の実際の姿が、そういうところに現れて、それが関係を良くも悪くもする。だから信頼の関係を壊す態度に注意しなさいと言われるのです。献金もしかり。信頼の小さい自分のことばかりになりやすい私たちを、あなたはわたしの子だと愛し養って下さる父への、感謝と献身のしるしが献金です。それを「覚え」ないで、この世の計算をする時、自分に注意しなさい、わたしを覚えて、と主は言われます。パン種が発酵するように自分がどんどん膨張したら、恵みによって結ばれた信頼が小さくされる。そしたら信仰は自分がやるべきことをやったら祝福され、やらな愛されないと、信仰は自己責任だと、自分を裁き、人を裁きやすい。そんな信頼の小さい者たちであればこそ、神様は放っておけなくて、あなたを一人では死なせないと、完全な犠牲として人となられた神様が、その罪も死も、わたしの責任だと私たちを十字架で担って下さった。その神様を信頼し、洗礼を受けて、神の家族の信頼関係に恵みによって入るのです。なら信頼が小さくても弱くても、あなたは我が子だから!だから信頼して欲しいと父に愛され求められる。その無条件の愛に信頼して、一緒に生きて欲しいのです。鈴木先生なら、だって本当だものと笑顔で言われるでしょう。その愛に本当に信頼して生きられるほど、大きな愛だから、身を任せ、共に歩んでいけるのです。