マタイによる福音書13章34-43節、詩編78篇1-8節「自分を信用しない信仰」

25/1/19主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章34-43節、詩編78篇1-8節

「自分を信用しない信仰」

心ある者は痛みなさいと言い換えたら、だから人となられた御子の心、そして御子を死なせられた父のお気持ちが分かるかもしれません。この譬えは24節以下の「天の国」つまり「天の父の十字架のご支配」の譬えだからです。終わりの日、生きている者と死んだ者とを裁かれる御子を、だから十字架で裁かれた父のご支配を、どう理解するか。私たち自身、悪があり、悪を行う世界に生きている者として、だから御子の十字架のご支配が必要なのだと、耳ある者として、救いを輝かすキリストの弟子として歩むために、主は、父のご支配の譬えを説き明かされるのです。

先に誤解を避けて、こうではない、という説き明かしからいたします。これは麦か毒麦かが生まれた時から決まっちゅう決定論ではありません。

もし、動かせない決定論とか運命だと誤解したら、なら神様のせいだと思うのではないでしょうか。アダムの耳が蛇に傾いて、御言葉よりも悪の言葉を、神様の言葉より自分の判断の正しさを選んだのに、神様に、あなたが与えたこの女が私に食べさせたから、あなたと、この女のせいだと逃げたように。人は何かと神様のせいだと誤解しやすい。

でもこれは決定論でなく、敢えて言えば、発生論。畑には麦を蒔いたはずなのに!どうして麦に似ちゅうけど異なる、毒を持つ者が発生したのか。どっから発生したのか。無から勝手に自動的に自発的に発生した、その人の自己責任なのか。イエス様がおっしゃるのは、自発ではない。毒麦が自力で無から自らを発生させるのでなく、毒麦を蒔いた敵は悪魔だと、その発生源を、ピンポイントで明確にされます。

じゃあ全部、悪魔のせいで、人は裁かれないのか。それも先のアダムの言い逃れと同じ誤解だというのはお分かりだと思います。それでも、つい人のせいにしたい、悪魔的な考え方に毒されやすい私たちの傾向を良くご存じの上での譬えなのです。悪魔の毒に惑わされないようにと。その上で主は、この世界にある悪の問題を、天の父のご支配のもとで!どう理解すべきかを、教えられます。

天地創造の時、創られた世界すべてを父はご覧になられ、すべて良いと祝福されました。人間も、その名を愛と呼ばれる三位一体の神様の愛の関係のご支配の形、御国の子としての「良い」形、神の形に創られて、良い!わたしの心に良い「心良い」、嬉しい、あなたは祝福だと喜ばれた。

その世界に悪が蒔かれ、悪の支配に心を奪われた子たちを、だから!償い救うため御子によって世界を救われる父のご支配は「隠されていた」。でも今キリストによって告げられているから、耳ある者は聴くのです。

先に人類の最初の代表アダムの話をしましたが、彼も神様の言葉と、悪の言葉の、両方を聞いたのです。彼は耳ある者だったか。あったのに、「つまずき」、耳を奪われてしまう。38節で「御国の子ら」と対比される「悪い者の子ら」を、「悪の子ら」「悪が所有した、悪に属した子ら」と言い換えると、アダムが、誰に耳を傾け、誰の言葉を信じ、誰の言葉に所有され、結果どんな裁きを受けたかが、お分かりになると思います。

その奪われたアダムの子らを、天の父のご支配のもとに取り返すため、御子は人となり「人の子」となられました。人に属する者、全ての人の悪と裁きを十字架で引き取ってご支配される「生きている者と死んだ者」の裁き主、人の裁きを引き取られた「人の子」として、言われるのです。あなたは誰の言葉を信じるか。わたしは良い種を世界に蒔く。あなたは誰の言葉を信じる、誰に属する誰の子か。誰の子になりたいか。我らの父の子だろう、そうだろう。一緒に呼ぼう、天にまします我らの父よ!御名が、父よ!と呼ばれますように!我らの父としてご支配ください、父のご支配の子として、御国の子としてお救い下さいと。そのご支配の中では、神様と人のせいにして自分を守ろうとなどしなくて済むのです。そんなことして自分も愛する人も守れるはずないのです。その私たちを、だから滅びから救い出し守るため「人の子」となられたキリストの救いの言葉に、耳を傾け、心を献げればよい。そこに御子をくださった天の父の憐れみのご支配が来て、汚れと滅びから守られるからです。

悪に対する裁きのご支配は、確かにあると主は言われます。でもその裁きの対象が誰であるかの判断と刈り入れは、人の子が遣わされる天使たちが行うから、人が、この人は毒麦だと判断し裁くのではない。毒麦が火で焼かれるような裁きは、あなたがたの行うことではないと、その裁きの火で代わりに焼き尽くされるために来られた人の子が言われます。

火によって、毒が消え、汚れが滅され、悪が完全に焼却される終わりの日が来る。その日、父の子らを、つまずかせ、父に逆らわせ憎ませて、自分のした悪を神様のせい、人のせいにしては、そこにある愛の関係を汚し失わせる悪の支配が火に投げ込まれます。そして悪の支配は終わる。その日、父のご支配の義しさに汚れなく包まれた、あなたがたの笑顔が、我らの父よと輝くために、人の子が来たから!耳のある者は聴きなさい、わたしについて来なさいと、キリストが救いのご支配を蒔かれるのです。