マタイによる福音書10章26-31節、詩編74篇18-21節「神様が死ぬほどの価値」

24/6/16主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書10章26-31節、詩編74篇18-21節

「神様が死ぬほどの価値」

当時の食卓には二羽の雀が出たようです。庭には二羽鶏でなく(笑)。今の日本円価格で500円弱。私たちは沢山の雀よりはるかに価値があると主は言われます。じゃあ私は何羽くらいなのかと計算するなら、いや、命は計算できないとおっしゃると思います。そしてもし、それが本当にわかって生きている私たち人間であったなら、腹が立つから殺すなんて考えるはずがなく、人々を、なら恐れる必要もないはずなのです。

私たちは、どんな世界に生きているのだとわきまえて生きているか。それを上段16節でイエス様は「蛇のように賢く」なりなさいと命じられました。つまり、罪とは何か、人間が陥りやすい罪の誘惑、人間の弱さを、しかし命を奪うためでなく、むしろ守るために、命を救うために、しかも相手の命の救いのために賢くわきまえるのです。この人のために、神様は命を投げ出して、罪を償い、赦して神様との父と子の関係に救い入れに来られたと。罪で滅びないために、神様が死にに来て下さったと、賢くわきまえて、向き合うなら、この人は滅びてはならない人だと向き合うなら、その人に向き合う姿勢は変わるからです。滅びても仕方ないと思うなら、その命は計算が済んでいる。違うでしょうか。

ある漫画で、北海道の農業高校に入学した生徒が畜産を実習する中で、子豚を豚丼と名付ける。すると先輩に、名付けたら情が移るき辛いでと言われます。実際、豚は半年で成長し出荷されます。その生徒は夏休み過酷な労働で稼いだバイト料でその豚を一頭買いし、食べて、命に向き合う。いわゆる命の教育と言える場面を読んで私は、それまでも頭では知っていた、命は犠牲によって成り立っているという厳粛な命の事実に改めて襟を正しました。とは言え、食事の毎に犠牲を思わないなら命をわきまえられないとは思いません。でも動物やき当たり前と値踏みして計算する態度は、自分以外の何かや誰かが自分のために犠牲になるのは当たり前と思う態度と紙一重なのではないか。その態度が、頭ではなく、態度として、キリストの犠牲がわからない原因、生きる命の姿勢として神様の犠牲がわからない原因を生み出してないかと畏れるのです。

ここでイエス様が雀と私たちを比較して「あなたがたは沢山の雀よりはるかにまさっている」と言われたのは既に6章で「空の鳥を見なさい…あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」と言われた、その続きです。あなたがたは三位一体の御子を犠牲にしてでも償うほど価値があるじゃないか、あなたがたはわたしの子ではないのかと、父は胸がつぶれるような思いであなたがたを愛しておられる。それがあなたなのだという厳粛な命の事実を、賢くわきまえて欲しいと言われるのです。自分のために他が犠牲になるのは当たり前とか仕方ないという愚かな態度が、迫害だけでない、腹を立て殺すこと自体を自己正当化する、滅びの罪(5:22)ではなかったかと。

殺すという言葉は「離れて屠る」という言葉です。ほふる。屠畜の屠。つまり犠牲にするのです。人が生きるために屠る。雀もです。天の父は、ご自分が養い育てた雀たちを、まるで心ここにあらず、心離れて、仕方ないろうと向き合わん態度で、殺して食卓に並べるのではない。これは我が子を生かすためだと向き合って屠られる私たちの父として、だからあなたには、わたしの与えた命を生きてほしいと向き合われるのです。

その父にキリストによって父の子として結ばれている者は、仮に体は殺されても、魂は殺すことができんと言われる。その魂と訳された言葉は、先の鳥の譬えで「自分ののことで何を食べようか何を飲もうかと…思い悩むな」(6:25)と言われた、まさに「命」です。もうキリストの命によって、父と家族の関係で結ばれて決して奪い得ない、壊し得ない、失い得ない、父の子としてキリストに生かされ生きる命は、体のように殺し得ない。そのためにこそ御子を犠牲にされた父の救いのご支配の内に救われ守られている。だから、その父に、あなたの命も魂も何もかも向ける姿勢で、あなたが滅びないために、御子を犠牲にされた父を畏れ敬う命の姿勢で、命に向き合いなさい。そうしたら自分の、本当の命に向き合える。そして、あるいはこの人は滅んでも仕方ないと値踏みする態度で軽んじて離れて心の中で殺してしまうような人の命にも、御子の犠牲の重さによって向き合えるよう変えられる。その人も滅んではならない人なのだと。その人も、私も、神様は他の誰でもない私たち自身の罪と命の汚れの故に、汚いから滅すると滅ぼすことがおできになる唯一恐るべきお方であるのに、その私たちの汚れを全て御子に移して御子に負わせて、あなたを代わりに裁くと、罪なき御子を、完全に見放された犠牲として十字架で屠られたのです。それは私たちが、その完全な犠牲によって滅びから救われて、父の子とされて生きるためです。

その父を我が父として畏れ敬う命の姿勢が、十字架の主と共に、父よ、彼らを赦して下さい、何をしているか知らんがですと、その人の滅びを恐れて祈らせる。神様の命と愛は、そこに覆いを除かれて現れるのです。