マタイによる福音書10章16-20節、エゼキエル書2章1-2節「父の霊が鳩の如く降り」

24/6/2主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書10章16-20節、エゼキエル書2章1-2節

「父の霊が鳩の如く降り」

20年ほど前、トラクトを配っておりましたら、いきなりガブ!いうて犬に噛まれたことがあります。病院に行ったのは覚えてますが、どこを噛まれたか注射は打たれたか覚えてません。ただ、今もトラクト配ってますので、トラクトがトラウマにならなくて良かった(笑)。

でも一つ覚えました。主が命じられた通り「警戒」、注意せないかん。犬にしたら不法侵入ですから。注意してなかった私も悪かった。伝道も同じ危険性が確かにある。土足で上がり込むような伝え方をしてないか。人の気持ちというものを、わきまえ、意識を注ぐ、つまり「注意して」、憐れみ深い父の救いのご支配を伝える。せないかんことやきするという律法主義の態度では、御子を与えられた父の憐れみは伝わらんからです。

16節、イエス様は直訳で、こう言われました「見よ、わたしが遣わす、あなたがたを狼たちの只中にいる羊たちとして」。

前の6節では「失われた羊たち」のもとに遣わされたのですから、常に皆が狼ではないと見分ける「賢さ」も大切です。皆が噛みついてくるのではない。ただ「群れ」ていると巻き込まれる弱さがある。同調圧力という言葉で私たちは四年前それを学んだはずです。あるいは今も本当はマスクを取りたくないのに、皆はずしているからという同調圧力もあるかもしれません。皆やりゆうき。皆、信じてないき。自分を守るために、狼になってしまう弱さを、注意して見抜く賢さを主に求める。そしたら土足の羊になる危険から、身を守れると思います。

「なりなさい」は直訳が受け身に近いので「ならせていただきなさい」です。先のエゼキエル書でも「自分の足で立て」と言われながら、主の「霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた」と告げるのです。私は賢くも素直にもなれん!いうて、もし御言葉に噛みつきたくなっても、「わたしが遣わす」と言われた主が「ならせていただきなさい」だって三位一体の父から与えられる聖霊様があなたの内で働かれるのだから!と約束されるのです。だから、はいと信頼して、父に求めれば良い。

19節の「心配してはならない」は、6章で主がこう言われた言葉です。「思い悩むな」。空の鳥を見なさい「あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。まして、あなたがたは」と、繰返し、心配いらない、むしろ信頼しなさいと、今日は語呂合わせが続きますが(笑)、信頼して求めなさい、「何よりも先ず、父のご支配…を求めなさい。そうすれば…与えられる」と、うんと心を込めて主が求められた。その父のご支配の内にあなたはもういる、父が!聖霊様を与えられるからと一貫して励まされるのです。

その時、言うべきことは「教えられる」と訳された直訳も「何故なら、与えられるからだ」。だから心配いらない、父を信頼しなさい。何故なら、20節も直訳は「何故なら、あなたがたが話す当人ではないから、むしろあなたがたの父の霊が、あなたがたの内で語られる当人だから」。

では私たちはどうするのか。与えると約束される主を信頼し、求める。「そうすれば与えられる…与えられるから…まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を(与えて)くださる」(7:7-11)から。

なら自分は素直で賢くないと噛みつく態度で自分を守らなくても良いのです。むしろ、自分を守ろうと噛みつく弱さを、人々も持っていると、自分の事としてわきまえて、だから父よ!与えて下さい!あなたが御子によってご支配くださっている我らの父であられると先ず私が信頼する賢さと素直さを、聖霊様を与えて下さい。信頼します!と求めて祈る。

「素直」とは「混ざってない」「純粋」「無垢」という言葉です。でも自分の身を守るのは不純だと言うのではない。身を守ったらいかんのではない。イエス様のために、またイエス様が死んでも救う!と愛される人々が救われるために、自分を守ることは、イエス様のためだから良い。自分のため自分を守る態度が、愛も信頼関係も、不純にするのでしょう。伝道も同じで、蛇のように賢いだけだったら、賢い人は、うまく自分を守りますから、そしたら伝道しないのが、自分のためには賢いのです。でもその賢さは誰一人救わない。人を救うのは、その人のために自分を捨てる十字架の愛の愚かさでしかない。私たちが愚かにも純粋に伝えるのは、自分を捨てられた愚かな神様でしかないからです。

それが嫌なんだと、自分を守りたい人間に噛みつかれた時は、主が、あなたは「わたしのため」愚かな愛に生きた、「わたしのため」あなたは自分を捨ててくれたのだと言って下さいます。それほどまで主と一つにされた私たちが、聖霊様を受けてないはずはないと信頼して良いのです。

イエス様ご自身、私たち罪人と一つになる洗礼を受けられた時、父に、はいと頭を垂れ、父から与えられ鳩のように降られた聖霊様を受けて、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と父から遣わされて、伝道を始められました(3:18f)。聖霊様が伝えられる愛の関係の神様の救いは、愛の関係抜きでの自分では伝わらないから。だから求めなさい。そうすれば、我らが!救いのご支配を来たらせてくださいます。