24/5/26三位一体主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書10章5-15節、イザヤ書52章1-12節
「選ばれ失われた羊たち」
キリストを信じる私たち教会は、どんな神様を伝え、その救いを実際に生きて証しするのか。どんな神様なのか。それが「イスラエルの家の失われた羊たち」という言葉にギュッと凝縮されます。
家。家族を養い導く天の父の、救いのご支配。それが「天の国」です。その父の家族が、でも迷い出た羊たちのように失われた!子供を必死で捜索する親の気持ちがわかるなら、父のお気持ち、御心もわかるのです。すぐ上9章36節でイスラエルの家族であるのに「群衆が飼い主のいない羊たちのように弱り果て、打ちひしがれて」飼い主イエス様が来られて、父のご支配が、ほらここに来た、わたしについて来なさい、共に父の家に帰ろうと招いても、立ち上がれない。父が信頼できず、迷い出たまま。その失われた羊たちを「深く憐れまれて」、その罪も弱さも全部十字架で負われた三位一体の御子に、父のご支配!が実現されている。だから父を信頼し、父の家族として共に生きようと招く。それが教会の伝道です。
無論「すべての民」に教会は後で遣わされますけど(28:19)、そこでどんな神様の救いを伝えるのか。失われた家族を放っておけない父の!愛と憐れみの、こう言って良ければ、悲しみに満ちるほど真実な関係のご支配がもうここにあると。信頼できる父なのだと、信頼できる生き方で証しして、一緒に父のもとに帰ろうと、礼拝に招くのです。日本でも、神様のもとに帰る、迷える羊のように関係が切れても、赦されて帰るというイメージは、私も信じる前、わかりました。わかりはするのです。
だからその父を、信頼できる家族の関係の神様を、生き方でも伝える。相手が罪に迷い裏切られても、裏切らない!信頼できる関係の生き方で。それはすぐ上のユダの説明から続く繋がりです。人は裏切る。でも神様は裏切らないで、友よとさえ呼ぶ信頼する家族関係に共に生きるのです。
先に聴いた旧約聖書の福音の約束でも、「贖う」つまり売られた家族を弁償して買い戻し、関係を回復する!それが救いだと約束されるのです。
その約束を信じて父との関係に生きる家族の間では、そしたら互いの神の家族の関係も、父の愛と信頼のご支配の内に回復されます。だから、弟子たちが遣わされた先で、あ、この家は父を信頼しゆう、信頼できると思った家では、父の家族としてご飯を食べさせてもらえるのは「当然」だと遠慮なく言うのです。きっと家の主人も、遠慮せんと食べて下さい、家族ですきと言った。私も何度も言われ、そのたびアーメンと思います。
「当然」と訳された言葉は「ふさわしい」と訳された言葉と同じです。家族の当然に生きている家が「ふさわしい」家だと。その家で主の祈りを祈る時、どんなに豊かに「我らの父よ」と呼びかける声が響いたか。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と命じられたのも同じです。父が子を愛する愛が無償である。その愛から迷い出た自分の汚れを知る者には、もったいないと思えるのも当然でしょうけど、それほど真実で、自分が感じるよりも!信頼し身を委ね愛されてよい確かな関係のご支配が、もうここにイエス様によって来たのだと、父が子を愛する、父子の関係の愛は無償なのだと、その平和に生きてよいのです。
その関係の平和がわからない世界は病んでいる。平和を知らないこの世界は本当に病んでいる。その病んだ世界を御子は人となられて癒しに来られた。体を張って。そしてその弟子たちも、体を張った愛と信頼の関係に、教会が実際に共に生きることで、世界はこの父を信頼して良いのだと、共に父の家族として平和に生きることで、救いを伝えるのです。
それでも、もし誰も聴かないなら「足の埃を払い落とせ」というのは冷たい言葉にも聞こえます。それは7章で、自分の行いを信じる偽預言者に「わたしはあなたを知らない」と主が言われるのと同じ、関係を無視する冷たさと厳しさを曖昧にさせんためです。人は曖昧にしたい。関係などいいじゃないかと。でもここで「はっきり」と訳された「アーメン」つまり「身を張った確かな真実」は、人間の命は、相手との関係に共に生きるしかないという神様由来の命の真実を、はっきりさせるのです。
命を共に「平和」に生きるのは、本当は誰もが求めて「当然」の正義なのに!その平和がない、病んだ罪の世界に私たちは生きていて、共に生きることに、こんなにも苦しみ、もう知るか!とさえ思って、神様をさえ知るかと思ってしまう。その私たちはでも「真実に」知らなくてはならない。見下して埃を落とすのではないし、神様がその人を、十字架から払い落とすのでは決してない。でもそういうイメージをしてしまう病んだ世界に、医者を必要とするのは病人だから、わたしは来たと、罪も病も汚れも全部引き受けて償われた贖い主を伝えるのです。わたしがあなたと共に生きるから、あなたは生きる、共に生きられる!と救いに来られた神様を伝える。もしそれで迫害され出て行かないかんなっても、ソドムのため執り成したアブラハムのように、愛の苦しみを共に負って執り成して下さるイエス様に背負われて祈ることができる。十字架の主と共に、父の御前に、失われた羊たちのために共に生きれば良いのです。