マタイによる福音書10章1-4節、ヨエル書3章「人の思いを超えた選び」

24/5/19聖霊降臨日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書10章1-4節、ヨエル書3章

「人の思いを超えた選び」

キリストが弟子たちに、御国の福音を宣べ伝え、その憐れみのご支配を証しするための権能を授けられた御言葉が、聖霊降臨日の礼拝で与えられました。また言うでと思われても言います(笑)。主の深い憐れみのご支配が、ここにもわかりやすく現わされていることを深く覚えます。

キリストの弟子たち、つまり私たちに権威があるのでは、ありません。汚れた霊を追い出す神様の権威の力・能力。それが「権能」と訳されますが、それは具体的には聖霊様のお力で(12:28)、教会の力ではない。

わかりやすく言うと、使徒とは、イエス様の使いのことです。だから、これでお使いしてきてとお金、タラントン(25:14)を預る。そのように教会は、さあ、あなたに預けた憐れみの力で、人々の汚れを清め癒して、わたしの弟子として一緒に立ち上がり従えるように、よろしく頼むよと、イエス様の使いを果たすためのご支配の権威「権能」を預かっている。

だからそれは神様が所有される権威です。罪を償い赦すために、神様ご自身が人となられて死んで償われるという信じがたい、だから信じる人も少ないのか、なら誰があなたを裁き救うのかという神様!の権威を、人間が好きにできる?わけがない。のに!償いに来られた神様をさえ、気に食わんと好きにして十字架につける人間の、自分中心になる罪深さ、弱さがあるのは、教会も例外ではない。預けられた権威を、汚したり、怖いき言うて地面に埋めたり(25:25)、神様の権威なのに神様のことを考えなかったり(16:23)。他にも私たち、イエス様から与えられた救いの権威を、自分は好きにしていないと言える人がいるのか。それほど、人間の好きにされてでも、ならばこそ!その罪を背負い切って償われる深い憐れみの神様による救いの権威なのだと、この神様に赦されるしか、人間は救われ得ないじゃないかという、十字架の神様としての権威を!教会は授かっているのです。赦される以外ない私たちなのだと、こんな私を、だから深い憐れみでご支配くださっているキリストの権威なのだと、襟を正すから、この権威にお仕えできる。違うでしょうか。

そのわかりやすい例として、先に「神様のことを考えなかったり」と言ったのは、使徒の筆頭に挙げられるペトロの代表的な汚れの例です。イエス様が、これからわたしは殺され復活すると、言わば苦しみを打ち明けられた時、そんなこと決してあってはならないと上から!ペトロが言うた。その時イエス様が直訳で「サタン、わたしの後ろに引き下がれ、あなたはわたしへのつまずきだ、何故なら神様のことを考えないで人間のことを考えている」と、ペトロに言われた。

今日の御言葉は単に悪霊でなく「汚れた霊に対する権能」と告げます。どんなことをサタンが人間にするのか。どんなふうに汚されて、神様のことを考えなくなり、十字架の憐れみがわからない、イエス様がわからない、神様ならこうやって救うがじゃないがか?と考えてしまうのか。教会には、どんな汚れからイエス様のもとに救い出す権威が与えられているのか。それを「汚れた」という言葉は教えるのです。

これも直訳は「清くない」「純粋でない」です。濁った濁流のように。逆に清流の純粋な心を5章では「こころの清い人々、純粋に神様のお気持ちを求め愛する人々は幸いだ、神様を見るから」と主は言われました。ペトロはイエス様と自分との間、私をも救いに来て下さった神様との間に、何か濁ったものを置いて、それを見ていた。姦淫が妻と夫との間に濁ったものを置いて関係を汚すように。神様との関係が濁る。愛が濁る。信頼関係が濁って、生理的に受け付けない、受け入れることができない汚さが、濁った霊から働きかけられる。その誘惑に乗り、思いと行いと関係が汚くなったら、気持ち悪い、退けと拒まれる状態になってしまう。そんな汚いことをする、受け入れられない霊は追い出されなければならない!その汚れた霊に、この人は神様が!死んでもわたしが引き受ける!と、神様が命がけで愛される人だから、出ていけと十字架の神様の権威によって追い出して、イエス様がペトロに他の弟子たちにユダにも言われたように、一緒に招くのです。自分を捨てて、イエス様について行きましょうと。そのために神様なのにご自分を棄てに来られた、深い憐れみの神様を、一緒に純粋に仰ぎ見るのです。そこに私たちの幸いが必ずあるから、神様が見えるからと、イエス様の御前に一緒に立つ時、イエス様が、わたしの使いを良くやってくれた、わたしはあなたたちと共にいたと、憐れみ深い羊飼いとして、慰め癒してくださるからです。

そのイエス様にお従いする歩みは、一人ではない。そもそも一人でと求められてない。最初の弟子たちも、だから二人一組で呼ばれます。後でイエス様は「二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」しかも迷い出た羊が一人でも滅びることは父の御心でないから、心一つに祈りなさい、わたしも共にいるからと約束されました(18:20)。これは、私たちに与えられた約束だと信じるから、教会は立てる。そしてこの憐れみが教会の救いだと証しできるのです。