マタイによる福音書9章35-38節、詩編23篇「臓腑わななく憐れみで」

24/5/12復活節第七主日 南国高知東合同朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書9章35-38節、詩編23篇

「臓腑わななく憐れみで」

実に5年ぶりの合同礼拝です。この5年「御国の福音」天の父のご支配を信じちゅうのに、打ちひしがれることもありました。礼拝自体に出席できないこともありました。そして今も礼拝に来れない兄弟姉妹のことを、主の御前で思う時、打ちひしがれそうになる思いもある。

この御言葉でも、イエス様はすべての町や村を回って、御国、つまり御子をくださった天の父の憐れみのご支配の福音を宣べ伝えられ、また口だけでなくて、そのご支配と権威を癒しの御業によっても現わされた。「けれど!」が36節で「また」と訳された言葉です。イエス様は、なすべきことを全部なされたのです。けれど!そこでイエス様が見た群衆は、イエス様ご自身から!御国の福音が宣べ伝えられたのに、打ちひしがれ、弱り果てたまま、立ち上がってイエス様の弟子として、はいと、ついて来れない。それほど弱っている。主の御言葉、福音が届かんのです。

その弱り果てた群れを見られて、主は深く憐れまれた。今日の御言葉の直前で対照的に描かれる憎まれ口を叩くファリサイ派のように怒りはせんのです。ファリサイ派はその前の頁で、なすべきことができん人を裁いて憐れまず、イエス様から「わたしは憐れみを求める」と御言葉が教えるのは何故か、学んで来なさいと宿題を出されたのに、裁く。

けれど!イエス様は、そんな律法主義的自己責任で人を裁かないで、直訳で臓腑がわななく、腹が深い奥底から軋むように痛み苦しむ、深い憐れみで人々を受け入れる。受け入れようとなんかするからお腹が痛むのに、受け入れることをやめられない。怒らない。キリストの弟子たち、教会に最も要求される福音伝道の姿勢です。

主はこう思われた。まるで飼い主のいない羊たちのようだ。詩編23篇の羊飼い、イエス様が来られたのに。彼らはその飼い主のもとで、御国の福音を聴いたのに。しかもその福音は、山上の説教で何と始まったか。心の貧しい者が幸いだ。天の御国、神様のご支配は、その人たちのものだからと、わたしが、そのあなたたちを十字架で背負う羊飼いとして、死んでも治めるからと、憐れみのご支配の福音を聴いたのに、飼い主のいない羊たちのように、イエス様が来てないかのように、弱り立てない。

その羊たちに、私たちは誰の顔を見るでしょうか。自分の顔かもしれません。牧師だけが、そこに多くの信徒求道者の顔を見るのでしょうか。そして説教が届かない現実や、自分の愛のなさ、自らの怠慢を思って、打ちひしがれて、収穫の主よ、働き人を送って下さい、私を憐れんで、その一人にして下さい、もうその一人であるはずなのに、働きが弱いのです、憐れんで下さい!と祈るのは、でも牧師だけではないと思う。

じゃあ立ち上がって、礼拝に来れてない羊を訪問しいやと言われたら、色んな言い訳を自分にしてしまう。訪問したらと思う人が、本当にそうしてくれたらと、働き人を送って下さいと祈りながらも、不安もある。イエス様の憐れみによって訪問してくれるろうかと。いや自分がやらなと弱り果て病に倒れる牧者たちもいる。それで代務を三つ掛け持つ牧師もおられる。イエス様、私たちを見ておられますよねと、その中で共に主のご命令に従いたいのです。単に皆で、力がない、弱いき仕方ないと、互いだけ憐れんでも何も変わらんから「だから!収穫の主に、働き人を送って下さるよう、願いなさい!」と、主が!命じられるのです。

誰に命じられたか。今、立って、主にお従いしている弟子たちにです。羊たちの弱った現実が見えるだろう。あの羊たちは、あなたには何だと見えるか。わたしには多くの収獲に見えると主は言われるのです。

コップ半分の水を見て、半分もと思うか、半分しかと思うか。御国の福音は、心の貧しい者が幸いだ、父のご支配はその人たちのものだからと、霊的な貧しさに弱り果てていようと打ちひしがれていようと、この羊たちは、わたしの愛する者たちだ、わたしの大切な収穫だと憐れんでご支配されるのです。御国の福音が宣べ伝えられたのに、貧しい。それでも幸いだ、わたしがそのあなたがたの羊飼いだからだと言って下さる。

そのキリストのご支配の下で、主が誰を働き人として遣わされるかを決められます。それが続く10章ですが、主が!決められ、遣わされます。人間が決めない。自分で、できるかできんかも、私は弱いからダメとも決めんのです。その私たちをご支配なさる「収穫の主」が決められます。弱くない弟子がおったか?十字架を前に逃げなかった弟子がおったか?ペトロはどうか?主を知らないと言って泣かなかったか?ユダも。主が選ばれたのです。選ばれたら裏切らないなどと人が決めんのです。それほど主に従えなくて弱く罪深い私たちを、大切な収穫だと集めて下さる憐れみ深い主イエス・キリストのご支配によって、この教会も立った。南国教会も、すべての教会が立った。その教会が弱り果て打ちひしがれているのを見たら、主よ、働き人をお送り下さい、私をも憐れみお遣わし下さいと祈らずにはおれない。力がないのに。だから!祈るのです。主が選び、立たせて下さったら、その人は、その教会は、立つからです。