マタイによる福音書9章32-34節、イザヤ書35章「言葉を失うような保身」

24/5/5復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書9章32-34節、イザヤ書35章

「言葉を失うような保身」

売り言葉に買い言葉、という、いささか物騒な日本語がありますが、実はイエス様、ここで一言も語っておられません。と言うかまるで脇役のように前に出て来ない。想像してください。この御言葉を1分の動画にしたらどうなるか。口の利けない人がイエス様のもとに連れられて来た。悪霊が追い出され、言葉を言い始めたがを見た群衆が、オ~こんながあイスラエルで見たことないと騒ぐ。それを場面端で見よったファリサイ派にフォーカスが移りアップになって「あれは悪霊の頭によって悪霊を追い出しゆうがぞ」とヤジを飛ばす。おわかりだと思います。御言葉は、主の権威によって御業がなされたことに対する、私たちの反応の姿勢に、焦点を当てるのです。

聴いた御言葉に対して、私たちが、どういう態度を取るか。目で見たキリストのお働き、救いの御業の証しに対してどんな姿勢を取り、また、どんな解釈をすることで、それを見て聴いた、自分は?どうするのか。例えば人がキリストによって救われる。この人、本当にどうしたが?と思う明らかな変化がある。色々、説明はできます。だいたい自分に都合よく、しかも自分に向かって説明する。でもそれとファリサイ派の説明と何が違うか。どうして自分にそう説明するのか、どうしてそう考えてしまうのか?を考える上で、省いてはならんのは、自分がそう考えるに至った自分の来歴。そう考えるに至った経緯があるのではないかという、自己反省です。私が正しいと思考停止をせずに、何で自分がそうなるか、自分の過去を省みる眼差しを持つと、世界も自分も見えてくる。

当時の宗教的エリートだったファリサイ派ですが、前の頁下11節で、イエス様に、何で罪人に肩入れするのかと不満を感じてしまった。あの人は悪い人だと、自分とは一線を引き距離を置くことで、自分は正しいと思いたい自己保身は、よくわかることじゃないかと思うのです。でも、そのままではいかんろうとイエス様は、そのファリサイ派に救いの手を、こういう形で差し伸べられた。医者を必要とするのは病人だ。あなたは病んでないのか。御言葉で「わたしが求めるのは憐れみであり、宗教的犠牲ではない」と言われるのは、どういう意味か、御言葉のもとに行き、学びなさい。わたしが来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためだと言われた。全ての罪を償いに来られた憐れみ深い神様としての権威ある御言葉を語られた。それをファリサイ派は聴いた。その御言葉を私たちも聴いた。それは言わば宿題をイエス様から与えられたのです。

神様は単に宗教的な行いの正しさを求められないで、何故それを求められるか、その深い憐れみのお気持ちを私たちが知って、はい、主よと、聴き従う(8:27)関係を求めておられる。この宿題をファリサイ派の人々はやったのでしょうか。私筆頭に宿題を貯めておく人を裁くつもりはありません(笑)。いや貯めたらどうなるかはわかってるのに!貯めてしまう。嫌なこと自分を不安な気持ちにさせることよりも、良い気持ちにしてくれることを、わかっちゅうのに優先して、無論、学校や仕事や家の宿題・課題ではなくて、人生の宿題、愛と憐れみと優しさに生きる、自分が代わりに損してでも人を愛して神様を愛して、イエス様の十字架の救いのもとで我が主、我が神と仰いで、赦され愛されて共に生きる命の求めを本当はわかっちゅうのに!言い訳をして、救いの憐れみに生き損ねてしまう。その私たちを、だから神様が黙って苦しんで受け入れて、代わりに死なれて償ってくれんかったら、誰も救われんまま病んだまま、死んだ後、自分だけで神様の裁きの言葉を聴く他はないのじゃないか。

誤解なきよう敢えて言わずもがなを申しますが、私はファリサイ派に肩入れして言っているのではなくて、私がファリサイ派の態度で生きてしまっている現実を、その私のために死んで下さったイエス様の前に、どうしようもなくごめんなさい、主よ憐れんで私をここから救い出して下さい、ごめんなさいと求めずにおれんから、そしてその宿題のもとにある人はきっと私だけではないから、御子を犠牲にして下さった父よ、我らの罪を赦したまえと、十字架の憐れみの主の名によって祈るから、その憐れみの前に、共に進み出ましょうと、罪人を招かれる赦しの神様の招きに応えているのです。

ここには言い訳をせずにはおれん自分の正しさと、本当なら唯お独り完全な愛の義しさを基準にされて、あなたの生き方は義しいかと、愛の義しい裁きをなし得る神様が、その愛の破れを黙って担い、まるで罪人の冒涜が聞こえんかのように、ものを言うことができないかのように、沈黙して十字架を見つめられるお姿が、命の明暗!をハッキリ分けて!描かれます。そしてその罪と裁きの暗闇を担われて!やがてピラトから「お前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか?」と言われても沈黙されて、聞こえない、わたしに聴こえるのは我らの罪を赦したまえと祈る声だ、そのためにわたしは来たと、父から代わりに棄てられて、代わりに私たちが救われる。その神様に、罪人は信頼の口を開くのです。