マタイによる福音書6章16-18節、イザヤ書58章「自分より主に頼る断食」

23/10/29主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章16-18節、イザヤ書58章

「自分より主に頼る断食」

報いてくださる。誰が報いてくれるのか。これをしたら、こうなる、なるはずじゃないか、これをしたのだから、という因果法則は、断食に報いてはくれません。食べなかったから、痩せた、ぐらいでしょう(笑)。

改めて、どなたが報いてくださると、私たちの罪の報いを引き受けて死にに来て下さった主が、どなたが報いて下さるからと約束し、慰めて下さっているのか。「あなたの父!が報いて下さる」。

ここでは一対一の親密な関係で、言わば罪の告白をする時と同じで、人には聞かせられない罪を、ただ一対一で父に、ごめんなさいと告白するような親密な関係で「あなたの父が」と主は言われます。あるいは、イエス様ご自身が父と一対一で向き合われる関係の近さでとも言えます。そうだ、あなたがたの父、我らの天の父は、あなたの!父だ。だから、父よと、一対一で父に向き合えば良い。あなたが断食するほどの苦しみを、あなたの父に見てもらえば良い。父は、その苦しみをご存じだから。その苦しみを、父に向き合って訴えかけている我が子に、報いて下さらないはずのないあなたの父だからと約束して下さる。ご自身の十字架の苦しみの報いを、今、教会の中に、私たちに見ておられる主の約束です。その苦しみは報いられたと、今、私たちと共におられるインマヌエルの主が、だから苦しみの中でも、父に向き合おうと慰めて下さいます。

週報にも記しましたが、妻が木曜から入院して子供たちと3人で、母と妻がいない家で生活しています。翌日には帰れるろうと思っていたより深刻で、私が暗い顔をしておったのだと思います。子供たちが気遣って、きっと私より不安なのに、少し明るい顔で家の手伝いをしてくれます。私も人前で沈んだ見苦しい顔はしないようにと心がけながらも、苦しい心がダダ漏れなんじゃないかとも思います。無論、あ~あ、見苦しい顔らあしたき、報いはない、残念、という父ではありません。隠れたことを見ておられる父は、私たちの心の苦しみもご存じです。十字架の天の父です。苦しみを隠さな報いがないというような、先週も申しました、機械的な、これしたき、こう、という法則の話ではないのです。

でもそれを神様に当てはめて、それを報いという言葉で理解するのが、いわゆる律法主義。つまり法則主義、機械主義、機械的に、機械仕掛けの神が、これをしたら、こう、これをしてないから、こう、と自分たちに幸せや不幸を与えると考える。それが人間の作りだす偶像です。

だから、実際に手っ取り早く幸せを、しかも宗教的な自己満足という幸せを得るためには、自分はこれをしているのだから、正しいのだと、人に見せて、実際に人がどう思うかもかまん。自分の正しさを見せて、自分はやった、それで機械的に満足する。それが6章で、人に見せる自分の正しさを主が3つ言われて、人に見せる、それがもう報いになっているじゃないか、そこには父と向き合う信頼関係の義しい姿勢はないから、そんな偽善者にはなってくれるなと、繰返し強調される偽善の醜さです。偽善者は見苦しい顔をすると言われるのは、父が見て本当に苦しくなる顔、自分は正しいという顔をしているからだと思います。

6章で言われる、おもに定期的な宗教的断食は、悔い改めて罪を悲しむ断食ですから、自分は自分の罪深さを正しくわきまえているという顔をしたのかもしれません。単に食を断って苦しいのではない。自分の罪が苦しいのだと。それを人に見せようとするから、見苦しくなるのなら、では神様に、自分の罪が苦しいという顔をして、断食すれば良いのか。そしたら罪を苦しんでいることが伝わって、反省してるんだなと、その悔い改めの正しさに報いられるということでしょうか。

無論、顔ではないし、断食をしたら機械的に悔い改めたことになるのでもない。むしろ隠れたことを見られる父は、私たちが自分の罪の何を苦しんでいるかを見られる父です。自分の罪が人を苦しめたから。父を苦しめたから。関係を傷つけたから、あるいは関係が断たれて苦しくて食べることもできないで、ごめんなさい、ごめんなさいと苦しむ。断食の根底にあるのは、罪による関係の苦しみの現実です。相手の苦しみがわからないなら、断食してでも罪の苦しみの現実に向き合って、ごめんなさいと苦しみ悔い改めて、良かったと関係が回復する恵みを求める。それが父の求められる断食です。それはむしろ断食に助けられ向き合う、偽善でない関係、信頼できる関係の喜びの求めです。

妻が入院することになって初めて、自分が妻を苦しめてきた現実に、頭でなく苦しみをもって向き合う思いです。子供たちも、それぞれ同じように感じたように思います。帰ってきたら、口でも、ごめんねと言うと思いますが、むしろ妻と母への悔い改めた向き合い方、関係の持ち方によって、その真実はわかる。そのように、天の父が私たちの、苦しむほど真実な、父への向き合いに報いて下さる。罪に苦しむ我が子たちを無視はできない父だからと、他の誰でもない十字架の主が約束されるのです。あなたの父が報いて下さる。そこに真実の希望と回復があります。