マタイによる福音書5章1-3節、詩編22篇20-27節「ないのに共にある幸い」

23/3/19受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章1-3節、詩編22篇20-27節

「ないのに共にある幸い」

この幸いを聴いた弟子たち、また群衆はどう思ったでしょう?自分が思ってきた幸せのイメージとは随分違うと思わんかったでしょうか。

「心の貧しい人々」直訳は「霊の貧しい人々」。うんとわかりやすく、神様の貧しい人々、神様の前で持ってない人とも言えます。人の前ではありません。人の目に幸せに映えて見える、豊かに見える自分や人生を持ってない貧しさ、ではない。逆に言えばそういう自分持ちが、本当に、では幸せ持ちか。更に天国も持っていればなお幸せと思うような幸いは、神様の前で持ってない貧しい人に、あなたは幸いだと約束するイエス様をこそ貧しくしてしまうのではないか。十字架抜きの、罪を背負ってでも救う信じがたい深い神様の憐れみを貧しくする、人間の思う幸せ。力のある人が笑う幸せは、十字架の神様を見失わせてしまうのです。

私たち、天国の入口で神様から、あなたの持っているものを見せてと言われたら、どんな人生や幸せや貧しさを、どうぞと見せるでしょう。私たちが見せたいものと、神様が見たいものは、同じでしょうか。

何で!幸いなのか。何故か?それがすべてです。自分故か?キリストの故か。3節の2行目の直訳はこうです「何故なら!天の国はその人たちのものであるから!」つまり、その貧しい人たちを救うために御子を代わりに裁き死なせた、憐れみのご支配が、その人たちのものだから!そのためにわたしは来たからと、イエス様は、私たちが神様の前に自分を取り戻し、向き直り、生き直す幸いを宣言されたのです。

十字架の憐れみを見失い、神様に不満を持ち、神様への畏れが貧しい霊の貧しさの現実を、だからこそ深く憐れまれる神様のご支配の現実がイエス様の存在だから。そのイエス様が、私たちと共におられるから!そのイエス様にお従いする幸いへと、私たちを招いておられる。それがここから始まる幸いの宣言、又ここに始まる山上の説教の全体です。

十代の頃、繰返し聴いたロックに「毎朝痛みを隠して地下鉄の駅へと向かう」という歌詞があり、特に「毎朝痛みを隠して」に共感していました。今は毎朝どころか寝ていても腰が痛い。隠しもしない(笑)。無論それは私がイエス様を知る前に持っていた痛みとは違う。むしろ私は、怒りを隠して生きていたと思います。毎日、怒りを隠して過ごす。今も怒りがないわけではない。何でこんな私たちなのか。どうしてこんなに愛の貧しい自分自分の生き方なのか。どうして毎日毎日罪に蹂躙されるような悲惨が続くのか。しかしそんな私の主として来られたイエス様を受け入れた今、その痛み悲しみ、人には隠している叫びを、イエス様!憐れんで下さいと、いつでも、どんな時でもイエス様!と呼んで、その憐れみを信頼して、飛び込んでいくことができるのです。自分を含む、他の一切は頼りにならなくても、どうしたらよいのか全く道が見えない暗闇の中であえぐ時でも、憐れんで下さいとお任せすることができる。もしそのイエス様の光さえ見えない時でも!それほどに神様に貧しい、神様の前でも腹が立ち頼りたくないとさえ思える罪の暗闇の中でこそ、こんなにも貧しい私を憐れんで下さいと、私たちの代わりに棄てられて下さった主イエス・キリストの名を呼んで、私の神様、私の神様!神様に貧しい私を憐れんで下さいと祈ればよい。何故なら私たちを既にそこで背負っていて下さる神様のご支配は、霊の貧しいあなたのものだと、あなたの幸いはわたしが背負っているとキリストが命に代え、全責任を負って約束して下さっているからです。

もし神様が私たちをキリストによって捕らえて背負って下さっているのでなかったら、貧しいまま滅びるしかない私たちが、その私たちに代わって棄てられて下さったイエス様をいただいている。いや私たちが貧しいままで生きなくて良いように復活されたイエス様が私たちと共に生きておられるから、私たちはイエス様を持つ、キリスト持ちになって生きていける。そこに神様のご支配はもう始まっているのです。

神様のご支配「天の国はその人たちのものである」。ある!というのは、今、現在そうだ!という現在形です。10節までの八つの幸いの各二行目は、最後10節が今日と同じ「天の国はその人たちのものである」と現在形で強調される以外は将来に現実となる、今はそうでないかもしれない未来形です。やがて御国が完全に来る時!必ず現実になりますが、その神様のご支配は、現在!あなたのものである。今!共におられる神様、イエス様によって!わたしはあなたと共にある神だからと宣言されるのです。感じない時も、信仰がないつもりの時も、信仰を自分が持っているつもりの時も、イエス様が私たちを負っていて下さるから、ある!天の国はその人たちのものである!のです。だから、その貧しさの幸いに生きよう。自分で自分がの不幸を後にして、キリストに、はいと従う幸いに生きよう。それがここで繰り返される幸いだからです。わたしについて来なさい、そうすればわかる。わたしが共にいる幸いを、祝って生きられるからと約束される、キリストのご支配の幸いに生きるのです。