イザヤ書43章1-7節、ローマの信徒への手紙3章23-24節「裁きから救われる理由」

22/8/28主日朝礼拝説教@高知東教会

イザヤ書43章1-7節、ローマの信徒への手紙3章23-24節

「裁きから救われる理由」

「無償で」。私たちのほうからは償いをすることなしに。むしろ、その償いを、神様が、愛ゆえの贈り物として恵んで下さって、これで帰ってきなさい、あなたを拒否しない、拒否するはずがない、あなたはわたしのものだと、私たちを創造された、神様のほうから迎えて下さるのです。帰って来なさい、わたしは主、あなたの神だからと。

「あなたの神」。それがわたしの名前だと神様は言われます。この後に唱和する十戒で、毎週告白する神様のお名前です。「わたしは主、あなたの神。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。そのエジプトが今朝の御言葉イザヤ書の3節にも出てきます。

「わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする」。昔、大国エジプトの奴隷となっていたイスラエルは、今はバビロン帝国の捕らわれの身となっていました。罪の結果でした。後悔しても、し切れない鬱々とした日々に、やがて心を閉ざすようになったようです。閉ざすことで身を守る。辛うじて心が死なないでいられるように。苦しみを少しでも無視できるように。でもそこに救いはないことも、きっと知ってはいたのです。だから救いなど、ないと思ったほうが楽になると言い聞かせておったのかもしれません。

そのイスラエルに、あなたを愛している、救うという言葉が届いた。その3節4節のどちらも3行目4行目で「身代金」「代償」「身代わり」「代わり」と、そのすべてに代、代わりにという字が入った言葉が連呼されます。どんな犠牲を払ってでも、救い出すから!という強い思いの溢れ出た言葉です。だってあなたを愛しているから!と。

私は、まだイエス様を信じる前にこの御言葉に出会いました。ある人が、これはまるで、神様から私たちへのラブレターじゃない?と書いたエッセイを読んで、まっことと思った。と同時に、何で愛し救うのに他の国々を身代わりにするのかとも思いました。

これには列国を取り巻く歴史的理由がありました。バビロン帝国捕囚の身となったイスラエルは、そのバビロンを打ち負かしたペルシャ帝国によって解放されます。それはエジプト、アフリカ諸国を狙うペルシャの軍事政策でしたが、イスラエルにとっては、その国々の代わりに解放され、故郷に帰れるという、予想もしない救いの奇跡でした。

人は色んな予想をしながら生きていく。良い予想も。悪い予想も。そして当たったら、ほら自分は正しかったと、悪い予想が当たっても自分を慰める。良いことなんて起こらないのだと。心を閉ざしながらも自分を慰めないではいられないのが人間でしょう。でも本当は、予想が裏切られてでも、良かったと喜びたいのです。誰かと一緒に喜べる幸いを、本当は知っていて、どこかで求めていて、神などいないと思いたい日々の中で本当は救いを求めて生きているのはイスラエルだけじゃない。

その予想を裏切る救いを、神様は他の国々でなく、ご自分が身代わりの犠牲となって、私たちに与えて下さいました。どんな罪があっても、どんなに心を閉ざしていても、わたしがあなたの償いとなって、あなたと共に生きる。あなたに救われて帰ってきてほしい。わたしはあなたと共にいる神、わたしはあなたの神だからと。神様が人となり、すべての人の罪を償い救うために、私たちのもとに来て下さった。もしかしたらと私は予想します。主は十字架の前夜、怖れに捕らわれた弟子たちに、このイザヤの言葉を語ったのではないか。わたしの目にあなたは値高く、貴い。あなたを救う。わたしはあなたの身代わりとしてわたしを与えると言い換えて、わたしはあなたを愛していると。勝手な予想です。裏切られるかもしれません。でもイエス様ご自身は裏切らない。もし私たちが主を裏切っても。主を裏切ったイスラエルを救う聖なる神、あなたの救い主が言われるのです。わたしはあなたを愛していると。

この御言葉は、2節で「わたしはあなたと共にいる」水の中でも火の中でもと歌われる部分が5節でも「わたしはあなたと共にいる」と違う歌詞で、言わばサビのように繰り返される、聖書に刻まれた無敵のラブソングの一つだと私は思います。一緒にいる。ずっと一緒にいる。私は映画アルマゲドンの主題歌を思い出していましたが(笑)、その映画で、巨大隕石の衝突から世界を守るために、これから自らを犠牲にする父親に、グレイス、恵みという名前の娘が通信で話しかけるセリフがある。私はパパみたいになりたくないと言ったけど、嘘だ。だって私、パパに似ている。私の良いところは全部パパからもらってる。愛してる、パパをとても誇りに思う。

あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな。あなたはわたしのもの。わたしの名で呼ばれる者。わたしはあなたの名を呼ぶ。あなたは恵みによって救われる者。その名を愛と呼ばれる(ヨハネ一4:16)わたしの愛する者。わたしは主、あなたの神と言われる神様に、はいと救われる。それが神様の栄光です。