22/8/14主日朝礼拝説教@高知東教会
ローマの信徒への手紙14章10-12節、イザヤ書25章6-10節
「皆、天の被告席に立つ」
神様の裁きの座の前に、私たちは皆、一人一人立って、自分が行ったことについて、申し開きをすることになる。
裁きの座の前で。横ではない。私たちは、裁きの判断を行う裁判官の一人ではありません。むしろその裁判官に裁かれる被告席の側に、皆、立つことになる。それが各自、自分の行ったことに対して、神様の前で持っている立場、罪人の立つ場所です。その立場をわきまえておれば、生き方は変わらざるを得ない。それが今朝の御言葉の説得です。
立場をわきまえる。私は神様の前で、またそれ故に人前で、私は誰として生きているのか。自分が何者かわきまえておれば、あなたは何様のつもりかという行いと態度は、変わっていくからです。
つまり私たちが私たちの兄弟姉妹について、何でそんなことをする?と裁く時、私たちは自分がどこに立つ者であるかを忘れているのです。「何故なら、私たちは皆、神様の裁きの座の前に立つからです」。その席を、日本語では被告席と呼びます。告発を被る、と書いて、被告です。告発、告訴されるのです。あなたは、これをした。これは罪だと。その告発に基づいて、裁判官が問う。間違いないか。弁明できる申し開きがあれば述べなさいと。
すべての人間が天の被告席に立つに先立って、地上で最初の被告席で述べられた申し開きが聖書に記録されています。神様から「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われ、アダムは答えた「あなたが私と共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので食べました」。これ、申し開きでしょうか。これは違うという証言として、また私たちが同じ卑怯なことをしなくて済むように、むしろ、ごめんなさいと言えるように残された、罪の証しではないのでしょうか。
「自分のこと!について」申し述べるのです。人についてではない。この人が、やったき。皆が!やりよったきと、他の人について申し述べるのではないし、まして自分に!言い訳をするのでは、ない。「神様に!申し述べることになる」。それが私たち一人一人の立場なのです。
裁きの座で、人の目は、関係ありません。気にもならんと思います。人は裁きません。やっと、わかるからでしょうか。裁いたらいかんと。いや裁けんのです。その時、人は、他の人について何も言いませんし、何も言えるはずがない。自分自身!が行った悪について、神様に!申し述べないかん立場に自分はいると、一人一人、わかるからです。だからその先取りを、主の前で今から生きるのです。
自分の立場をわきまえ続ける者として。今から、神様の前に立ち続ける。裁いた瞬間、ごめんなさいと立つ。侮りを覚えた瞬間、助けて下さいと立つ。人は、死後、初めて、神様の前に立つのではないでしょう。違うでしょうか。まるで神様が、それまで私たちを顧みてなくて、放置したまま、人が罪によって死んでいくのを知らんまま別の場所で遊んでいるかのように思うことはあるのかもしれません。本当は自分のほうが自分のいるべき場所を忘れて、神はどこにいるのかと、裁く場所にいるのに。そのことを、裁かれる立場にあるのに。
私たちこそ問われるのです「あなたはどこにいるのか」。主はどこにも逃げていません。責任放棄もしていません。むしろ私たちの罪の責任を十字架で引き受けられて、死んだ人にも生きている人にも主となられるために、代わりに裁かれて死なれ、主として生きておられて、私たちの前におられる。この方こそ、私たちの主、私たちの神様です。
もしその神様と御言葉に背を向け、神はどこにいるのかと思うなら、ここにいると、常に主を指し示す十字架を仰いで、十字架のキリストの御言葉に、耳を澄ませばよいのです。
ずっと前に、四国の先輩牧師から電話があって、そんなことで電話をしなくてもと思い、はい、はい、ありがとうございます、失礼しますと口では言いながら、受話器を電話に戻すより先に、真面目やねえと横にいた妻に言った。ら、まるで亡霊でも見るような顔で、私の持っている受話器を指差した。私も自分が何をしてしまったかをわきまえ、ゾッとして、そっと受話器を戻しました(笑)。もし、私が先輩を上から裁いた言葉が聴こえておったなら、本当に愛の人だと思います。何もあれから言われてないし、態度も同じく接して下さって、キリストの羊を牧する態度とはどういう態度であるのかを示し続けて下さっています。
まして主は、とても人に聞かせられない心の声さえ、すべてを聴いてご存じの上で、変わらぬ愛と態度で私たちに向き合い求め続けて、さあ顔を上げて、わたしを見なさいと、恵みの御顔を向けて下さるのです。必ず裁かれる私たちだからこそ、その裁きを自ら受けられて、それ故に義しく私たちを裁くことのできる主として言われるのです。今から本当の言葉を先取りなさい。皆が神様を褒め称える、恵みを口にしなさいと主は、生きて言われる。その憐れみに、今からひたすら生きるのです。