ローマの信徒への手紙13章8-10節、箴言17章9節「愛する、これに尽きる」

22/6/5聖霊降臨日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙13章8-10節、箴言17章9節

「愛する、これに尽きる」

律法。神様の義しさを示す、神の家族のルールとも言えます。各家庭に、家のルールがあるように、家によって生き方のルール、この家ではこの生き方が正しいと教えられるルールは、おそらく違います。例えば人に負けるなと子供に教える家もあるかもしれません。やられたらやり返せと。心で覚えたルールは生き方を変えます。私たちはどんなルールを覚えてきたのでしょうか。しかも、これが正しいルールだと。どんな正しさが、私たちの生き方をこれまで作ってきたのか。その生き方は、しかし、神様の愛の義しさ、十字架の愛を心で覚え、はいと生きる時、心から新しくされる生き方へと造り変えられていくのです(12:2)。

聖霊降臨日にピッタリの御言葉で言えば「御霊の結ぶ実は愛」です。イエス様を信じる者に注がれた聖霊様が、神様に、はいと生きる者に、ではこれをと愛の実を結んでくださる(ガラテヤ5:22)。つまり、自分のためでなく隣人の幸いのために自分を献げますと、この人は神様から死ぬほど愛されている隣人だからと、十字架の神様に、はいと従う家族に、聖霊様が愛の実を結んで下さって、救いの義しさを満たされる。

それは、別のルールが支配する世界の只中に、救いが、キリストの愛のご支配がもう既に来ているのだと、神様が、その家族によって世界に福音を証しするためです。そのために、キリスト者一人一人に三位一体の聖霊様が降られて、いつも共におられます。いつも互いに愛し合えるように。いつでも隣人がその愛を通しキリストに出会えるように

その救いの義しさ、キリストを示す律法を、でも人間は自分が覚えた正しさのルールで曲げて理解して、それが神だとか救いに必要なことだと誤解しやすい。例えば、皆さんも聞いたことがあるかもしれません。人に迷惑をかけなければよい。それが社会のルールだと。あるいは自分のルールになっていたら、人を裁く時、迷惑をかけゆうと思い、子供を注意する時に、迷惑やきと言ってしまう。日本では雑草のように抜いても抜いても、はびこって、つい、迷惑やきと考えてしまう世のルールの代表じゃないでしょうか。

ともすると、そのルールを持ち込んで例えば10節を読み、「愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」、そうね、愛は隣人に迷惑をかけんきねと誤解すると、そこでイメージする愛は十字架の愛とは、別の何かになってしまいます。自分を献げなくても、迷惑をかけなければよい、只の配慮とか、優しさとか。無論、配慮も優しさも愛に含まれます。でも十字架の犠牲の優しさは、自分は赦されなければ救われない罪人なのに、その私をキリストは負って下さったと、赦しの厳しさを知って、それでも赦す愛を知って、初めてわかる優しさです。その愛は、隣人に悪を行わない。むしろ救うのです。救われてほしくて愛するのです。迷惑などという個人的正しさの感情を損ねる損ねない、あるいは人間関係だけで考えて、迷惑になるなら距離を取ったほうが楽という、人間だけの話ではないからです。愛は、その人と神様との関係を見るから、神様が、その人に悪を行うな、愛してほしいと求められるから、はいと愛する。その愛が律法を、神様の義しさを満たすのです。

大胆に譬えれば、悪いことは一切しない子供の頃のイエス様の、でも愛することもしない偽物の神の子を想像したらわかるでしょうか。神様が求められるのは愛であって、人間が思う、悪を行わんかったらえいという正しさでは、ないことが。親が、したらいかんと言うことは何でも聞く。これをしなさいと言うことも何でも聞く。父母を敬い、安息日を心に留め、これを聖別して、一切の悪を行わない。でも、自分から親のため、兄弟のため、隣人のために何かをすることもない。つまり愛することはしない。でも隣人に悪は行わない。人に迷惑をかけない。正しく造られたロボットのように。その正しさが、その名を愛と呼ばれる神様の義しさではないこと、またそんな正しさなど神様は求めておられないことは、おわかりになると思うのです。それは神様が求められる私たちではない。その私たちが、父よ、愛以外の正しさなど、もうえいです。愛がなかったら義しくないです。主よ、互いに愛し合う愛をください。あなたの喜びが満たされるため。隣人が救われるため。十字架の主の愛を見ることができるように、私たちに愛の実を結んで下さいと、十字架の愛に、はいと身を献げるところに、神様は、御国を来たらせて下さいます。いつも聖霊様はそこにおられて、既に私たちの内に、また只中に御臨在下さって、神様の御業を行って下さいます。もし見えなくても。あるいは十字架のイエス様が、人々から迷惑だと思われ、笑われ、神のお気に入りなんだろ、神の子なんだろと信じてもらえなくて、愛が見えなかったように、私たちが、主に、はいと献げた隣人への愛が、人にも自分にも見えなくても、私たちは信じてよい。隣人を自分のように愛しなさい、あなたはわたしの証人となると約束して下さった主を、はいと信頼して、身を献げ、委ねて愛すればよいのです。