ローマの信徒への手紙13章8-10節、レビ記19章18節「人を愛する責任を負う」

22/5/22復活節第六主日礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙13章8-10節、レビ記19章18節

「人を愛する責任を負う」

愛、しかも神様から注がれて愛する、神様を根拠とする十字架の愛、アガペ―の愛で人を愛しなさいと、御言葉は改めて私たちを、キリストの愛のもとに立たせます

右の頁上9節で「愛には偽りがあってはならない」、その愛は偽善なきものであれと、既に御言葉は私たちをキリストの十字架の愛のもとに、その救いの愛を、世に証しする者として立たせました。そしてすぐ10節で「互いに…互いに」と繰返す。その愛は教会が互いに向き合い、主の十字架で赦されている恵みを互いに分かち合って証しされるからです。あなたも私も、神様が死ぬほど愛して下さっているからと共に受け入れ合い、互いに愛することでキリストの救いを証しする。その前の5節が告げる「キリストに結ばれた一つの体」として、互いに愛し合う。

教会の生き方は、愛なんだと、改めて私たちの生き方、私たちはどう生きるのかという考えと態度に、真っ直ぐ筋を通し直しているとも言えるでしょう。わかっていても猫背に戻ってしまうと言うか(笑)、そう、愛ながよと、頭でなく、御言葉に、はいと聴く時に姿勢が整えられることを、主は本当に良くご存じなのだと思わされます。

その愛の背筋を、十字架の主に従って、はいと伸ばさせる呼びかけとしては、けれど、ん?と思う呼びかけにも聞こえます。何で借りの話が出てくるのかと。なので8節を丁寧に訳します「誰にもどんな返済義務のある負債をも負ってはならない、ただ互いに愛することは別だ」。

返済義務のある負債というのは、まあ当然のこととして、借りたら返すのですが、すぐ前の7節で「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」と、例えば税金納入の義務は、もし納入せんと負債を負うことになる。もっとご近所話で言えばゴミを出すルールを守らんと、負い目を負うことになる。あの家は…もし私なら、教会やに、違う日に出して、教会やに悪いことをしゆうと思われたら、その人のために死なれた神様の福音を証しするための教会として、キリスト者として立てられているのに、証しできんなるから、そういう返さないかん、償い埋め直さないかん負い目を誰にも負わないように。つまり悪を行わないように、いわゆる社会的ルールは守りなさい、福音の証しのためにと、前からの続きで言い換えても良い。

ただ互いに愛することは別だ!しかもその愛は、単に社会的に仲良くしましょうという神様を抜いた、あるいは抜いたほうが平和を保てて、証しをせんほうが愛だとさえ思われる社会の枠、人間の枠の外からの神様ゆえに愛する愛なのです。

その人間の罪を、つまり人が神様に対して、返済義務として負う罪の報いを、神様は代わりに負われて償うために死なれた。だから罪を負う神様の、その名を愛と呼ばれる神様の愛で互いに愛し合うことは、全く別なのだ!社会のルールを守らん悪は、福音の証しにならんき守ろう、果さないかん義務はちゃんと果たそうという、言わば消極的な生き方とさえ別なのです。大胆に言えば、人から悪く言われんために果たすべき義務を果たそうという生き方も、キリストの救いの証しにはならない。言い換えると、それはこの世の枠だから。つまり自分で自分を守ろう、自分を義とするために義務を守って、責められるリスクは負わんようにして自分を救おうとする自分のための姿勢。それは先に9章10章11章と長い説得を要した、キリストは要らないと拒んだイスラエルが陥った姿勢だからです。それが、8節の続きが直訳で「何故なら他者を愛する者は!律法を全うしているからです」と続く理由です。神様の義を示す律法を、これも大胆に言いますが、守らないかんからと守っても、律法の要求は満たせんのです。なのにキリストを信じた私たちであっても、いかに律法主義的な生き方に陥り、キリスト者として、せないかんからと義務を果たす姿勢で、愛することさえ、せないかんからという自分の義務として行い、私なら、牧師として責められないように牧師スマイルで接するという自分を守る行いになりやすいことか。

でも愛は別なのです!その私たちを神様は、愛がないと責めるより、その責めは、わたしが代わりに負うからと、ご自分で罪の責任を負って赦して救って下さった。拒まれても、敵対されてさえ。その十字架の愛に、だから、はいとお従いする愛で、教会が互いに愛し合い、キリストを世に証しする愛は、おかしいんじゃないかと思われるほど、世の形とは別なのです。キリストを証しする愛で愛さなくても、この世から責められたりはせんのです。なのに十字架の愛で、それ故に傷を負うことがあってなお、だって、この愛は別だから!と、御言葉に従って愛そうと思うのは、その世を救うために、負うためにこそ人となられた十字架の神様が、わたしについて来なさいと召されるのを、この世の枠の外から聴くからです。このイエス様に負われ赦され救われたから、世の人々も、この愛で主が救って下さると信じるから、愛する責任を負うのです。