ローマの信徒への手紙8章23-27節、イザヤ書26章7-9節「うめいて祈り待ち望む」

21/6/20主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙8章23-27節、イザヤ書26章7-9節

「うめいて祈り待ち望む」

何を祈るべきか、私たちは知らない。だから三位一体の聖霊様が祈りを助けて、執り成してくださると御言葉は励まします。執り成して下さるというのは、祈りを天の父のもとに届けてくださって、これがこの子の祈っていることです、それが言葉にはならないのですけど、でもこれがこの子の心から、うめき待ち望んでいることですと、私たちが本来、祈るべき求めを、聖霊様が父に届けて下さって、その祈りは、言葉にならなくても、うめきだけれども、聴かれるということです。

それは、ああじゃあ言葉で祈らいでもえいがねと、う~と唸っておればよいということでは無論ありません(笑)。嫌でしょ、司式者が礼拝で唸っている教会(笑)。う~。人来んですよ(笑)。またそれは、祈らんでも、心のうめきを知ってくれるやったら、祈らんでもかまんがでねえというのでもありません。たぶんそうやって思う時には、私たち本当はうめいてないんじゃないでしょうか。

うめく時の苦しさ、おそらく皆さんご存じだと思います。私が分かりやすいかなと思ったのは、夜中に親知らずが痛くなって一晩中眠れずに、朝が来るのを、そして歯医者が開く時を、忍耐して待ち望んでおった時の、理屈でないうめきです。頭で知っているような、うめきではない。体に刻まれたうめき。それを思い出したら、寝る前にジュース飲んで、まあこれくらい歯を磨かんでもえいかと頭は極道で思うても、うめきが歯を磨かせてくれる。そういううめきを、それによって生き方が変わるようなうめきを、聖霊様は、私たちの祈るべき祈りのうめきとして与えて下さって、私たちの弱さを助けて下さいます。

どういう弱さか。何を祈るべきか知らない弱さです。26節では「どう祈るべきか」と訳されましたが、直訳は「何を祈るべきかを知らない」。言い換えれば祈り求めるべきことが、ズレてしまうことがある。本来、求めるべき、うめきながらでも、熱心に忍耐して待ち望むべき何かではなくて、弱さの故に、違うものを祈り求めてしまう人間の弱さがある。その弱さを、イエス様は弟子たちに、ご自分の十字架の死による救いを教えられる中で、しかもその十字架が弟子たちにさえ理解されなくて、救いとして求められない!そういう人間の弱さを前に、その弱さとは、こういうことだと言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マルコ8:36-37)。命が失われてしまうことに、神様は耐えられないのです。だから三位一体の御子が、すべての人の身代わりとなるために人となられて、クリスマスに、私たちを救う命のプレゼントとして来て下さった。私たちの命の代価として、ご自分の命を、償いの命として、完全な代償として、代わりに支払いに来て下さったのです。これで、あなたの命は買い戻されるから、誰一人失われてくれるなと、神様が命を捨てて下さったから、人は救われる。

その救いの良き知らせ、福音と呼ばれる神様の救いを、だから教会は世界中に知らせ、またこれが自分のこととして伝わるようにと、神様の愛によって変えられた生き方と共に、伝えようとしている。のですが、弱くて、愛がズレる。何で神様が死なれたのかが、頭で、理屈で理解はできても、それで生き方が、求めが変わって、本当や、命が失われたらいかんやかと、何を祈り求めるよりも真っ先に、一番優先される求めとして、先ず十字架の救いを求めるより、神様の愛のご支配、御国を先ず求めるより先に、目の前の必要として見えていることを求めてしまう、弱さがある。その祈りも父は憐れんで聴いては下さいますけど、もし、それが与えられて祈らなくなるなら、それは本当に何を祈るべきかを、知らんからです。

でもだからこそ、聖霊様は、うめきをもって執り成して下さいます。23節でも「霊の初穂(つまり、まだ全部は与えられてないけど、確かにあなたは罪と死から完全に救い出されるという聖霊様の保証)を頂いている私たちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と約束されます。キリストと一つに結ばれる洗礼を受けて、聖霊様が与えられるとはそういうことです。単に死んでも神の子とされて天国に行けるというのではない。単に名字が変わったと天の名簿に事務的な手続きがされるのではない。神の子とされるとは、体に聖霊様による神の子のうめきが刻まれて、イエス様と同じように、人は、命が失われたらいかんのだと、うめきながらでも、言葉にならず、わからなくても、本当に祈り求めるべきことを、救いの御国を、聖霊様の執り成しによって、言葉にならないうめきをもって、祈って待ち望む神の子とされる。その救いの奇跡を言うのです。

その救いがなるために、イエス様ご自身、うめいて泣いて祈られた。その福音は次週の祈りの御言葉で説き明かしますが、永遠の三位一体の神様が、そこまで弱い私たちと一つになられるのです。本当にそこまで私たちと同じ人間となられて、弱い人間の身代わりとなられて、父よ、こんな弱い私たちを憐れんで下さいと、身代わりに罪を背負って死んで下さった。そのイエス様のうめきを、聖霊様はうめかせてくださって、必ず聴かれる救いの御心を祈らせて下さるのです。

約20年前に流行った歌で、I am God’s childという歌い出しから始まる歌の中に、こういう歌詞がありました「こんなもののために生まれたんじゃない」。こんなもののために生まれたんじゃない。私はその言葉を聴くたび、心のうめきが共鳴する思いがあります。自分の弱さを思います。いつの間にか妥協して、自分のことばっかりで愛に生きられず、怠惰で、俺何をしゆうがやろうと思う弱さを、だって仕方ないじゃかと思いたくなる、言い訳したくなる自分中心のどうしようもない弱さを、でも俺は、こんなもののために生まれたんじゃないと、心のどこかで、うめく思いがある。本当は、皆そうなのじゃないのでしょうか。

そんな私たちの弱さを、神様は御子によって背負い、罪を背負い、死を背負い、何もかも背負って、聖霊様によって、私たちは本当はこのために生まれてきたのだという、神の子としての永遠の命を、イエス様と一緒にうめき求めさせて下さって、恵みによって救って下さる。それがその名を愛と呼ばれる三位一体の神様の、神様の愛が勝利して、私たちもその愛の力を受けて、うめきながらでも愛する者とされて、神の子とされて救われる、イエス・キリストの福音だからです。

最後に27節で「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と言われます。私たちの弱さを執り成してくださっている聖霊様が思っておられることがあるのです。そしてそれは必ず、天の父の御心と同じなのです。三位一体の神様ですから、完全に一致した思いをもって、父と御霊が一つの思いで、そうか、これが、御子が命を捨てて代価を払って、すべての罪を償った愛する者の祈りか、そうですと、祈りの会話、救いの会話をなさるのです。うめいている私たちは、言葉にならないうめきを心に覚えながら、ただうめいている、何を本当に求めているのかさえ、知らんでうめいていることもあると思います。何でこんなに苦しいのか。何を求めているから苦しいのか。苦しいなら求めるのをやめたらいいのに、求めている何かがある。それを知らないで、言葉にならなくて、でもその思いを、私たちの知らない救いの深みから聖霊様によって与えられた思いを、父は知っておられ、聴いて下さって救って下さる。そうだ、あなたはわたしの子だと言って下さる。だから求めなさい。救いを探して叩きなさい。ドアは必ず開かれるからです。