21/5/23聖霊降臨日朝礼拝説教@高知東教会
使徒言行録2章37-42節、詩編126篇
「熱心な祈りに育まれ」
新しい生活を、私は始めると、新しい生活に心を向ける。いや、その新しさを、すぐそばで喜んでおられる、新しい生活の新しさそのもの、イエス様に顔を向けて歩み始める。私の主よ、と新しくイエス様の名を呼びながら。これが使徒の教える悔い改め、そして洗礼です。
その生活には、イエス様が私の主として、常に共におられる。それが新しさです。洗礼はよく結婚に譬えられます。おめでとうと言われる。何をおめでとうと言うのか。もう一人ではないからです。相手と一つに結ばれ、結婚では、死が二人を別つまでですが、洗礼は違う。洗礼は、死ぬ時も、死んだ後も、いや目覚めた時にこそ、何で皆が皆おめでとうと言ってくれたかよくわかる。イエス様が目の前におられて、おはようと笑って下さる。私のために死んで下さった方、罪を背負って下さった方、私が今こうして復活して永遠に生きるためにも復活して下さった方が目の前におられて、天の父からも、あなたはわたしの愛する子と喜びの言葉をかけられて、また洗礼を受けた者たちをキリストと一つに結んで、結び続けて決して離すことをなさらなかった三位一体の聖霊様が、きっと涙ぐむようにして、そこで喜んでおられる。その永遠の新しさと確かさに向けての新しい生活が、洗礼から始まるのです。
悔い改めるという言葉の直訳は「考えを方向転換する」です。言わば転換点にあたるのが悔い改めです。英語でターニングポイントとも言いますが、電車のポイント切り替えを考えても良いでしょう。ガチャッとレールが切り替えられて、行く先が替えられるのです。今まで通り行く方向とは、違う方向に転換する。こっちが私たちの行く道ですねと。
今朝の御言葉でも「私たちはどうしたらよいのですか」と、道を尋ねるのです。このまま今までと同じ方向ではいけないとわかった。けれどもし自分なりに考え、ではこっちか、だと、結局レールの先で前の道に戻っていて同じ自分というゴールに行きかねない。だから、切り替える先を示してほしいと尋ねたのです。それでペトロは、ポイント切り替えのレバーの先に十字架が掲げられた切り替えを指差して、こっちに切り替えなさい!私もそうした。皆そうしなさい。各自イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、全くの贈り物として、全く価なしに聖霊様を受けるから!と約束した。
主は言われました「わたしが道である」。レール自体がキリストです。主が共に歩んで下さる道に支えられ、道に背負われて、その道以外の上には、もはや身を置いてない私たちの全存在が、主に支えられている。脱線しても、離れない。そこまで聖霊様がキリストと私たちを一つに結ばれているからです。そして、主が起こして下さる。だから、主と共に歩める。同じように主と結ばれた兄弟姉妹たちとも聖霊様によって一つにされて、共に歩んで行ける。それがペンテコステの御言葉が証する、教会の歩みであるのです。42節。「彼らは、使徒の教え(つまり聖書の教え)、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。
キリストの使徒たちは、ただ御言葉を教えただけでなく、無論、祈りも教えたのです。洗礼準備会でも主の祈りを教えます。最初から祈れる人はおりません。親が我が子に言葉を教えるように、あるいは、おんぶひもで負われて母の歌や語りかけを聴くように、教会の兄弟姉妹たちの祈りを聴いて、私も育ったし、皆そう。祈りを聴いて、祈りを覚える。
祈りは単に言葉だけでなく、祈る姿勢も学びます。「熱心であった」。熱心な祈りに育まれる。別段、声が大きいわけではない。いつも涙声であるわけでもない。でも熱が伝わってくる。おんぶひもで背負われて、伝わってくる熱があるように。祈る中で、伝わってくる熱がある。安心する温かさとも言える。それは愛の温かさ、愛の熱、神様を愛し、人を愛する祈りの熱、温かさでしょう。私たちに対するキリストの熱い思いが、祈りを通して伝わってくる。ないでしょうか。祈りの終わりに何で皆、イエス様のお名前によって、イエス様のお名前によってと祈るのかと、いぶかしむ人もおられるかもしれない。でもきっと段々と伝わってくる。祈りつつ、この人も背負われているのだと、そして背負っているのだとわかるようになる。自分の力で祈るのではない。自分の愛で祈るのではない。聖霊様によって伝わってくるキリストの愛で、十字架の愛と赦しと恵みと誠実さによって、私もまた背負われて祈るのだと分かるようになる。そうやって皆で祈る。天にまします我らの父よと、御子による救いをくださった父に、父の家族として、皆で祈る。
これからその家族の一員となる姉妹に洗礼を授けます。天使たちの見守りと喜びの中、三位一体の神様のおめでとうの祝福を受けるのです。