ペトロの手紙一5章5-7節、箴言3章34節「損する心配を委ねて」

21/2/28受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一5章5-7節、箴言3章34節

「損する心配を委ねて」

「心にかけていてくださるから」。私たちが思い煩う以上の気遣いと、極めて具体的な配慮をもって、神様が私たちの人生の、あらゆることを心にかけて下さっている。それは、常に具体的に与えられている御言葉の導きの内に、大変わかりやすく現れています。心配してますよと言うだけじゃなく、じゃあどうしたら良いかと、迷いやすい羊たちを導いてくださるのが、私たちを心にかけて下さっている神様です。

「長老に従いなさい」という御言葉も、つい自分なりの信仰の態度や生活でメイメイ自分の道に迷い込みやすいからでしょう。羊だけに(笑)。従う模範が必要なのです。群れの模範としての長老の模範に従う。

しかも「同じように」ですから、従う人自身が、他の人の模範になることも含めてです。だから長老に従うとは、模範としての生き方を見る人が、そうか、模範には、ああやってなるのだと、他の人々への模範としてどう歩めばよいか、その模範をも見る。それは、長老という言葉が本来意味する年長者が、他の人たちの模範として見られるという当然のことでもあるでしょう。後輩は先輩を、また子供は親を見て育ちます。見てほしくないところほど、よく見られていて、真似られる。しまったと思う。自ずと身を低くされることではないでしょうか。

だから御言葉は続いてすぐに「皆、互いに謙遜を身に着けなさい」と命じます。皆に。例外はない。年長者も、若い者も、皆が、謙遜を身に着ける。しかも「互いに」です。それもまた教会の模範とは何かが問われるところでしょう。個人個人めいめいの自己責任にはしていません。私は謙遜を身に着けるけど…どうもこの人は身に着けたくないがやろうか、確かに性に合わんかもしれんけど、まあえいか、この人の問題やきという自己責任にはしない。互いに、謙遜を身に着ける。大変に具体的な神様の気遣いであると、襟を正されます。

言い換えれば、謙遜でない態度を兄弟姉妹に見る、まさにそのところで、謙遜を身に着け損ねてしまう対応は、起こり得るのです。共に高慢になり、自分が正しいとか、相手に勝とう、相手の上に立とうと、低くなり損ね、自分も相手をも主の道から迷い出させてしまう弱さがある。その私たちをこそ憐れみ救いに来て下さったキリストに救われた羊として、謙遜な十字架の神様の羊の模範として、互いに謙遜を身に着けて、相手に仕える。謙遜を、身に着けてないが故に迷いやすい羊のために、互いに謙遜を身に着けて、互いに、キリストの羊の群れとして、十字架の憐れみの主にお従いしていく。それが、迷える世に神様の救いを証しして執り成す教会への、神様のご配慮だからです。

模範になる、しかもキリストの羊としての模範になるとは、何よりも謙遜であることによる模範だとも言えます。教会に来始めた人が、少しすると必ず耳にするイエス様の御言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)。聖餐式での招きの言葉でもあります。実は聖餐の招きの御言葉は、私が聖餐式の時に持つ小さな黒い本、教団式文の中に5つあって、その中から私は3つか4つを読みます。でもイエス様が「あなたがたを休ませてあげよう」と招かれる言葉は必ず読む。それは、私たちには、自分で負えない重荷があるからです。なのにその重荷を負ってしまい、負えないのに、いや、これは俺が私がと、自分のプライドや傲慢さ故に負っている、負ったつもりになっている自分の人生や、罪、色々な重荷を背負いこんで、頑張って、でも負えなくて足もとが狂って、道を踏み外しそうになっている。その私たちを心にかけられ、放っておけなくて来て下さった神様が言って下さった。私たちの重荷の一切を背負って、共に神様の恵みに歩めるように「わたしのもとに来なさい」と。自分で負えない重荷はわたしが負うから、わたしは主、あなたの神だと、神様が身を低くして、来て下さった。あなたと共に生きたいのだと。それが私たちの神様だから、この救い以外によって、私たちは救われてないのだから、だからこの十字架の主のもとで、休ませてもらいましょうと、この言葉は必ず読む。そして共に、キリストの恵みを受ける。

その招きの中でイエス様はこう言われました「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。わたしの謙遜に学びなさい。そうすればあなたは休息を見つける。今朝の御言葉で言えば「思い煩い」という重荷をイエス様にお任せして、ほっと恵みの一息をつけるのです。

思い通りにできることは、思い煩いません。できるから。自信があるから。けれど自分にはできないと思う時に、思い煩う。できないのに、負わなければならない。負えないのに、私がしなければ、自分で負わなければ、自分で何とかしなければ。できないから思い煩うのに、自分で自分でと、ますます思い煩う悪循環に迷い込む患い、病、自分病とさえ言えるほど思い煩ってしまう私たちがいる。その私たちを、キリストは追い詰めることはされんのです。自分で頑張れ、もっと力を出せえとはおっしゃらない。むしろ、あなたが自分で負わなければ負わなければと思い煩っている、その重荷は、あなたには負えない重荷だろう、わたしが負うから、できんでも責めんから、そもそも人は自分の力で、自分で生きることはできんのだから、わたしがあなたの重荷を負ってあなたと共に歩むからと、主は言われる。十字架の柔和で謙遜な主が、言って、招いて、あきらめないで、重荷を負って共に歩み抜いて下さる。

そのイエス様の恵みにひれ伏し、ありがとうございます、あなたが私の主、私の神様ですと、重荷を負って頂いた、キリスト者として歩む。その姿を他の人が見る時、弱くも見え、強くも見える、でも自分としては受け入れがたいことのように見えるということは、あるのじゃないかと思います。自分の行いや、自分の信仰の強さ、人と比べて安心できる自分の何かに立つのではなくて、6節で言われる「神様の力強い御手のもとで自分を低くし」、キリストの赦しと憐れみを受けて、謙遜にほっとする生き方は、教会の中でも、受け入れがたく思われることはあるかもしれません。神様の前に自分の罪と弱さを認め、御言葉に、はいと身を低くして主と共に歩むこと、謙遜を身に着けて歩むことは、この世で、損をする生き方になるのではないかと心配する思い煩い、ないでしょうか。自分でやらないと損するんじゃないか。欲しいものを失ってしまうんじゃないか。神様は与えてくれないんじゃないかと信頼できなくて、任せられなくて、だから私は謙遜になれないと思い煩う。そこにも先に言った自分病としての思い煩いは住み着きやすいのだと思います。

どう言えばよいだろうかと考えました。ロマ書8章の「御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」を説き明かそうかとも思いました。でもこれは私自身の思い煩いでもあったので、単刀直入に言おうと思いが与えられました。神様の力強い御手の下で自分を低くし、謙遜なイエス様から学んだら、たぶんこの世では損します。この世で欲しかったものの多くは、きっと失うと思います。でもそれ以上に、きっとそうなると確信しているのは、それを損だとは思わなくなります。損しても、それで誰かが救われるために損をするなら、えいですと思うようになります。泣きながらでも。その涙と献身に報いてくださる十字架の神様の力強い御手の下で、私たちは変えられます。キリストの柔和と謙遜が持つ恵みの力によって、謙遜な者に賜る恵みによって、私たちは人々の救いのために祝福されます。だからぜんぶ委ねてよい。神様が私たちのことを心にかけていて下さるからです。