ルカによる福音書1章67-79節、創世記22章1-18節「深い憐れみのクリスマス」

20/12/20クリスマス主日礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1章67-79節、創世記22章1-18節

「深い憐れみのクリスマス」

いよいよ四つ全部のろうそくに火がともり、クリスマス礼拝を迎えることができましたことを主に感謝します。そう説教最初の言葉を用意しながら思ったことがあります。特に今年だからでもあるでしょう。もしクリスマス礼拝を迎えられなかったら、感謝できないのか。おそらく、残念に思いはするでしょう。一緒に礼拝を捧げたかったと、きっと思うに違いないのです。でもたとえ、一緒でなくても、礼拝堂でなくても、ろうそくがなくても、キリストが私たちのもとに来てくださった。今朝の御言葉でザカリアが聖霊様によって語った通り、神様が私たちを救うために訪れてくださった。そこにクリスマス礼拝の光はともるのです。

神様が私たちを救うため、人として来てくださった。新聞で、豪雪のため二日以上にわたって動かない高速道路で、車の中で過ごした方々のことを読みました。ガソリンが切れるのを恐れ、寒さに震えながら過ごした方々も少なくなかったようです。その方々のもとにガソリンや食料を持ってきてくれた救援の人を見た時、その方々がどれほどホッとしたろうかと思います。あるいはそんなの持ってくるのは当たり前だ、それよりいつになったら動くのかと怒る人、感謝できなかった人もおられたかもしれません。

もし神様が、そのように感謝した人は救うけど、感謝できん人は救いを自分から失ったのだ、せっかく持ってきてやったのに、これはやらんというような憐れみのない神だったら、今朝の御言葉は存在しません。私たちの救いは「我らの神の憐れみの心による」からです。その救いは77節で「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」と言われた、赦しの憐れみの大きな十字架の上で、怒り不平を持って信じるよりも信じない心が勝ってしまう罪人が、キリストに背負われる救いです。「この憐れみによって」です。どうして助けが来たのか。どうしてクリスマスを感謝できない人も、悪い事ばかり続くと心が折れて、ふて腐れた心だったとしても、どうしてそれでも神様の愛と救いを信じて良いのか、キリストを信じて良いのか。暗い心のまま、その暗い夜が終る「あけぼのの光」を待っている者たちを照らす光が、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす光が、「高い所から」訪れるからです。

人間が、自分の思い通りにならんと暗くなるような人間が、そういう人間のような神に求める曙の光なら、ごく普通に低い所から出て、それを拝む、低い所から照らす光でしかないのでしょう。背の高い人は曙が見えるけど、背の低い人は高い人たちに邪魔されてか見ることさえできない。ますますふて腐れるしかない。そんな神だから信じないと思う。その神は、でも、その人を救うために高い所から一番低い所に、陰府にまで降られた神様とは違うのです。木曜のイブ礼拝の御言葉で賛美する天使たちが「いと高き所には栄光、神にあれ」と讃える神様は、そのような賛美も感謝もできないほどの暗い地に住む、いや、その暗闇から出たいと願っているのに出られない、暗闇と死の陰で寒さに震えている、その人を目がけて、その人を救い出すため、その人の罪を負うために、赦して新しくするために、その人のために人として生まれてくださった神様です。その憐れみの高さから来られた神様です。どんな人間の低さも道徳的低さも、この神様の憐れみの高さによって駆逐されるのです。憐れみに飲み込まれるのです。

御言葉の73節2行目で「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」と言われる、その「敵」というのは、人間が人間と比べて高ぶったり落ち込んだりする人間同士で闘争し、その闘う相手を敵と思うような人間同士で作る敵ではありません。その敵は、仲間になり得ます。けれど十字架でキリストが私たちから奪って、ご自身を刺し貫いて、その汚れなき命と共に死なせ葬って駆逐された人間の敵、キリストの敵、神様の敵は、決して私たちの仲間になりえない罪という敵です。人を神様から引き離し、滅ぼし、悲しませ、怒らせる、罪という敵は、敵であって、仲間にはなってはくれん敵です。仲間になるふりをして、滅びに向かわせる敵です。仲間だと信じさせ、幸せになると信じさせ、自分を信じさせはします。でも神様の憐れみの正義が人を罪と滅びから救い出すと約束される神様の御言葉を信じることを、信じない方向へと心に嘘の道を照らす敵です。その敵に人間はやられてしまう。どれほどしかばねが積み上げられても、わからないようにされてしまう。この敵を、クリスマスの聖なる御子が、人となられた永遠の神様が、わたしがこの敵と滅びを、その汚れと呪いごと引き取って、わたしがその死の棘と滅びに至らせる攻撃を無効にしてしまうからと、十字架で死なれた。罪の口を封じて黙らせ、その攻撃を全て身に負って、だから罪は黙って十字架の償いの死によって負けてしまえと、陰府に降られた。この敵にわたしが勝つから、その勝利による赦しの救いを、あなたたちは信じて受けなさいと、キリストが人間を背負って下さった。私たちの仲間となり友となって下さった。だから人は、どんな人でも、このクリスマスの神様の深い憐れみを信じて良いのです。感謝できなくても信じて良い。不満を抱えたまま、痛む心を悲しみながら聴けばよい。罪ゆえに痛む傷も、その痛みも悲しみも後悔も何もかも、十字架で釘打たれたご自身の両手の傷の内に、全部引き受けられた主の赦しの御言葉を、これは私のためなのだと聴けばよい。その全ては、私たちに御子をくださった神様の「憐れみの心による」からです。78節「これは我らの神の憐れみの心による」。

その心の深さを信じればよい。直訳では、内臓、あるいはクリスマスに思うのはイエス様が母マリアの胎に宿られた、胎、子宮とも訳し得る言葉です。神様の深い心の内に、胎の内に、神様が身代わりとなられるほどの深い憐れみの内に身を任せて、目をつむるようにして信じればよい。神は愛なり。御子は救い主なりと。この深い憐れみによって人は救われ、この憐れみによる平和の道へと、御子が導いて下さるからです。