ペトロの手紙一3章13-17節、詩編70篇「義のための受苦の幸い」

20/11/1主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章13-17節、詩編70篇

「義のための受苦の幸い」

義のために苦しみを受けるなら、幸いである。どんな幸いでしょう。どんな幸いなら私たち、苦しみに耐えてもよいと思うのでしょう。

この幸いは、祝福とも訳される、神様がくださる幸いです。つまり、この幸いをもたらす苦しみの只中には、神様のご介入がある。だから、単に幸せな気分になるとか、ラッキー、ええことあったという神様抜きで感じたり得たりする幸せ感、お得感は、この神様がくださらなければ決して受けられない幸いとは、まったく関係ありません。それが、義のために、キリストのために苦しみを受ける者の幸いです。キリストは脇に置いて、自分で良いと思うことを行なっているのではない。キリストを主とあがめるから、主が御言葉で求められることを行う。それが義、正義であって、先週も申しましたが、神の国と神の義を先ず求めなさいとおっしゃったイエス様に、はいと応えて、神様のご支配、神様の正義を求めて生きる時に、え?という苦しみを受けるのです。

世のご利益信仰のスタイルで、これをしたら良いことが見返りとして起こるだろうからと考えて、神の義に従うのではないでしょう。時に、古い肉の思い、世の考えに流されて、間違ってご利益信仰の思いに流されることはあると思います。それで、私は神様に従って例えば礼拝しに行ったのに、どうしてこんなことが起こるのかと、良いことが起こるのではなかったかと不満に思うことは、この手紙が書かれた当時からおそらく少なくなかったのでしょう。だからこそ、心を乱すなとアドバイスされるのです。予想外のことが起こっているわけではないのだと。

「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言われるのは、主が、ご自分に従う弟子たちに何とおっしゃったかを思い出させようとしている言葉でしょう。例えば、今朝の御言葉をペトロが記した時に、彼の心の中に響いていた主の言葉の一つは、おそらくマタイによる福音書5章の主の言葉であったに違いないのです。新約聖書6頁、マタイ5章10節以下です。「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

ここで主が約束された天の報いは、神様抜きで自動で加算される幸福ではありません。私たちの苦しみを、ご自分の苦しみとされる神様が、あなたにはわたしが報いる!あなたの受ける苦しみに替えて、わたしはあなたに永遠の重みをもった報いを、決して消費したり使い尽くすことのできない永遠の幸せを約束すると、神様でしか与えられない大いなるご褒美を、ここで主は約束して下さっているのです。

それがどんなご褒美であるのかは、きっと想像さえ越えているのだと思います。が、今朝の御言葉に戻って15節で「心の中でキリストを主とあがめなさい」と語りかける時には、改めてキリストを主とあがめる主の弟子としての私たちの心が何を望むのかまで、見越しているのではないかと思うのです。永遠に欲しいもの。何でしょうか。私たちが永遠の命で、イエス様を目と目、顔と顔を合わせて仰ぎつつ、永遠の幸いに生きる時、本当にそこで欲しいのは、モノなんかじゃないと思います。私たちが日々この人をお救い下さいと十字架の主に祈っている、その人が、永遠の日々を生きて、一緒に主を笑顔で仰いでいる将来、この人が失われないでいてくれる幸い以外に、何を希望しているのでしょうか。15節で「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」と言われるその希望とは、自分が救われることだけではないでしょう。無論、私たちが自分で誰が救われて誰が救われないかを決めることはできません。私たちが誰かを救うことは決してできません。救いに導くという言い方もありますが、導こうと思って導けたらどんなに良いかと、私は伝道者として、ふがいない思いと同時に、主の前に畏れを持って、唯々主よ、用いて下さいと祈るのです。希望しているのです、この人が十字架の救いへと導かれますように、主よ憐れんで導いて下さいと祈るしかない。いや祈りつつ、希望を抱いているのです。こんな私をも召して下さった主が、どうしてこの人を救って下さらないはずがあろうかと、父よ、あなたのお名前は愛です!と、希望を抱いているのです。十字架で、この人の全てを負い切って下さった主イエス・キリストが、キリストが救って下さる!と、希望を抱いているのです。

その祈りが聴かれて、私たちが抱いているこの希望について、説明を要求される時が来るのなら、一体なぜ私が、愛する者たちの救いを祈り求めて、キリストを主とあがめているかについて弁明できるなら、そのために十字架を負われて、すべての人の義となられたキリストのために苦しみを受けることは幸いじゃないですか。その時には必ず主が、近く親しく共にいて下さって、救いを証しさせて下さるからです。「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するように」、キリストが心をご支配してくださいます。だから「心の中でキリストを主とあがめなさい」。義のために苦しんでも、心を騒がせる必要はありません。そこにキリストの救いのご支配が、一層力強く働いているのですから。心を高く上げ、祈りが聴かれることを信じて、共に十字架の愛の正義に歩むのです。