ペトロの手紙一2章1-3節、イザヤ書55章1-3節 「しっくりくるキリスト」

20/8/16主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一2章1-3節、イザヤ書55章1-3節

「しっくりくるキリスト」

人が何かする時、何故それをするのか、根拠が大切です。まず根拠、拠って立つ土台を考える。何故そうなのか。何故そう生きるのか。

1節も先ず根拠から始まります。「だから、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って」しまいなさい。何故、これらを捨て去るのか。直訳は「一切の悪意、一切の偽りと偽善と妬み、そして一切の悪口を」捨てるのか。その根拠が先週の22節からの御言葉です。一言で言えば、あなたがたは永遠に朽ちない福音の御言葉を受け入れて、朽ちない神様の子供とされたのだから。だから!裁かれて朽ちる嘘の生き方を捨て、罪の偽りから私たちを救われるキリストを求めて、成長しなさい。

私は昔から流され踊らされるのが嫌いで、作られた嘘の自分を生きるのが嫌でした。皆、本当はそうじゃないでしょうか。誰が嘘に生きたいと思うでしょう。天の父は尚のこと我が子が嘘に生きるのを望まれず、一切の嘘を捨てよと言われます。あなたは十字架の真理を受け入れて、新しく生まれた神の子じゃないか。神様が身代わりに死なれるほど私は愛されている、私は赦されているという真理を受け入れたじゃないか。だから!その神様の真理に生きよ。一切の偽りを捨て、上の段1章14節で言えば「無知であった頃の欲望に引きずられることなく」直訳すると「欲望と同じ形になってしまわないで」、欲望に踊らされないで、だって私が私として生きる根拠はもはや変わったのだから、だから今まで私を作ってきた嘘の私の根拠も、嘘の私がやってきた嘘の生き方も捨てる。グッバイ古い私。イエス様、今までごめんなさいと悔い改める私たちに主が、わたしはもう、古いあなたのことは覚えてないよと、どこまでも優しく、わたしについて来なさいと愛してくださる。

その私たちが、古い自分の生き方を隠し持つのは、自分にも偽りになりますし、そこにはやはり、悪意が隠れているのです。だって捨てられないとか、皆しゆうとか、何で私だけとか思っても、それも自分を偽って神様に従えない、しまいには神様に悪口さえ言いたくなる、アダムが持っていた同じ悪意でしょう。そこから救われるために、主は十字架でその罪を負われた、その主の十字架に捨てる他ない悪意です。キリストの愛のもとにのみ、悪意も嘘も捨てることができる。ごめんなさいが私の心の真実となるような救いへと、神の子たちは成長できるのです。

偽善、仮面をつけた自分も、主がお嫌いになる偽りです。愛されたいと思って、例えば良い人の仮面などつけるのかもしれませんし、人から気にされたくて悪い仮面をつけることもあるのでしょう。でもそれも、人からどう見られるかでなく、神様が自分をどう見て下さっているか!そこから始め直したら、次第に変えられていきます。

私は人の顔で一番美しいと思う顔は、自分のした悪を、本当に悪いことをして、ごめんなさいと、罪の自分が打ち砕かれて涙を流して泣いている人の顔を、心から美しいと思います。祈りながら神様の前に涙する人の顔、時には説教の途中で涙をふきながら御言葉に向き合っている人の顔も、私がこんなに心動かされるなら、天の父のお心はどんなにその人に対する愛情が溢れているだろうと思います。そして、その後で笑顔になった人の顔が、本当に天使のようだと思うのは私だけではないでしょう。まあ、天使の顔見たことないですけど(笑)。きっとその笑顔には天使もノックダウンなんじゃないでしょうか。きっとそう。

天の父が我が子に見たいと願っておられるのは、その美しい顔です。偽りの仮面の顔も、偽りの生き方も、見ていて辛いものだと思います。本当はそれをやっている本人も、それが重荷になっていると思います。その重荷を負っている者は、誰でもわたしのもとに来なさいと、十字架の主が優しく呼びかけて下さっている。その福音に、はいと生きることを、今朝の御言葉は「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」というイメージで言い換えます。

「混じりけのない」という言葉は、1節の「偽り」がないという言葉です。嘘だらけで筋道の通ってない、矛盾だらけの生き方から私たちを救い出すのは、嘘のない十字架の愛の筋を、真っ直ぐに貫かれた神様の救いの道だから、つまり、キリストを求めて生きなさいと言うのです。しかも乳飲み子のように!一日何回泣くんでしょう?お乳がない!と。週一回日曜の朝の数十分だけじゃ絶対足らん。あなたも本当はそうじゃないのかと。本当は足りてなくて泣きたいのに、キリストではない嘘の代用品を心に突っ込んで魂を満たそうとして、嘘の生き方になってはいないだろうか。あなたはキリストを受け入れて、朽ちない福音によって新しく生まれたキリストのものだから、その本当の自分を成長させることができるのは、キリスト以外にはおられない。だから!代用品を捨てキリストを求めなさい。だってほら、あなたはもう主の恵み深いことを味わっているでしょう、知っているでしょうと言うのです。

「恵み深い」と訳された言葉。これは説教題にした「しっくりくる」という言葉です。例えば大工が大工道具を手に取って、これはまっこと手にしっくりくる、心にも優しく感じるばあ、ぴったり馴染んでうんとえい、まっことしっくりくる、という言葉です。先に言いましたマタイによる福音書11章で「疲れた者、重荷をおう者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主が言われた後で「わたしのくびきを負いなさい…わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」と言われた。そこで「負いやすく」と訳された言葉が、同じ言葉です。わたしのくびきは、あなたにしっくりくるからと言っても良いのです。くびきは畑を耕す二頭の牛が並んで歩むため、首に乗せる木の枠です。つまりイエス様は、わたしはあなたと並んで歩む。そのわたしはあなたにゴツゴツせんと優しく、しっくりくるろうと言われる。そのキリストの優しさ、あなたを十字架で負われた主の愛は、あなたにしっくりくることを、あなたはもう味わっているでしょうと言うのです。

だから一日に何度も、泣きたくなるほど、キリストを求めなさい。あなたのいのちは、主のもとにあるのだからと説得するのです。だから、お一人様の信仰も、私の宗教的な部分だけキリストが必要という嘘も、嘘つくな私!と捨て去って、今日礼拝から帰っても、帰る途中にも、私は24時間365日イエス様が必要です、わたしは主のものですと生きる。

自分はそこまでせんでも大丈夫、と思って生きてしまっていることもあるでしょう。でも、その大丈夫の仮面の下に人への悪意を隠して、心で悪口を言ったり、何故この人がいい思いをして、私が苦しまなければならないのかと妬んでいる自分は、やはり嘘をついているのです。自分にも、神様にも、サタンがエバに言った嘘をついているのです。本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言って、人も自分も泣かせることになる嘘の自分は大丈夫ではないのです。キリストが必要なのです。だからキリストが来て下さったのです。その罪の私たちを十字架で背負って、私たちのために泣かれるほど、私たちを背負われて、この罪をわたしが赦すから、あなたを負うから、あなたを一人にはしないから、あなたはわたしのもとに来て、わたしのくびきを負って、わたしと歩みなさい。わたしは主、あなたを負い続け、決して見捨てない、あなたの神だからと言われる、優しい十字架のキリストが、私たちには必要なのです。

嘘や偽善の仮面では隠し切れない罪の私たちです。だから隠すのではなくて、神様に、ごめんなさいと言って捨てるのです。神の家族には、それがやっぱりしっくりくるから。キリストが、その顔は本当に美しいと笑って喜んでくださる、神の家族の成長が、そこにあるからです。