20/6/21主日朝礼拝説教@高知東教会
マルコによる福音書16章9-18節、創世記15章1-6節
「信じられないからこそ」
先週少し触れましたように、今朝の御言葉はマルコ自身による執筆ではなく、おそらく数十年後に加筆された御言葉のようです。ただ旧約も多くは編集を加えられた御言葉です。そこにも神の霊感が働き、それも含めて教会の依らねばならない唯一つの正典でありますと教会が信じてきた。そのことは流石に亀甲〔〕だけではわかりません。でもそもそも御言葉を主の御言葉として信じるとは、どういうことでしょう。それは単に、私はこれは本当やと思うと、内容を信じる信じないという話ではないでしょう。誰がそれを語っておられるのか。これは生きておられる主が語られた言葉だからと、主を信頼する信仰がなければ、信じるとはまるで自分で取捨選択できる情報のように扱われてしまう。それがここで、弟子たちに起こったことではなかったのでしょうか。
復活の主が、その弟子たちを叱られた時、ただ不信仰のみを叱られたのではなく、不信仰とセットの「頑なな心」を叱られました。これは、乾いてカサカサに固くなったかかとのような心、潤いを失った心の姿です。人は、キリストとの信頼関係の確かさで心が潤されている時には、御言葉に、はいと聴ける。でも心が自分自分になると信頼の潤いを失ってカサカサになってしまう。信じて心が潤うというのは、単に世の巷に溢れる優しい言葉や自分を肯定してくれる言葉で、心が癒されるという言わば一時の関係なき潤いとは異なります。信仰は心と心の関係です。キリストと信頼で結ばれる愛の関係は、口約束の恋愛関係とか、あの人いい人という薄い関係ではなく、契約によって確かにされる関係です。御言葉が「信じて洗礼を受ける者は」と伝える通り、心で信じるだけの通り過がりの関係ではありません。聖書は教会のことをキリストの花嫁と呼ぶように、契約によって結ばれた愛の関係の確かさを、しかも先ず神様のほうから恵みとして差し伸べられた愛の手を、信じて受け入れて結ばれる恵みの関係を、主を信じるとか、信仰によってと言うのです。
ここでイエス様に叱られている弟子たちは、数年間イエス様と一緒に暮らし、御言葉を聴いて、信頼できる言葉を聴き続け、アーメンと言い続けてきた愛の関係を持っていたのです。なのに、十字架でイエス様が死なれたことは、自分の期待していた救い主のあり方とは余りに違っていて、ショックで、心が頑なになってしまった。主との関係の中でこそ潤される心が、主が十字架で死ぬなんて、自分はそうじゃないと思っていたのに、自分は、自分は…と、自分自分に心の潤いが奪われて、自分自分でカラカラのカサカサになってしまって、心が頑なになってしまった。信じる心ではなくなってしまっていた。本当は、それでもキリストの弟子として、キリストと結ばれているのにです。
今朝の御言葉で強調される「信じる」というのは、単に個人が信じる信じないという話ではありません。そんな個人が信じる信じないという信じるは、自分の気分は潤しても、愛の関係によってのみ潤される心の中には届かんのじゃないでしょうか。例えば美味しいティラミスを食べている時の私みたいに気分は上機嫌だけど、心は頑なで愛に乾いているということは、あるでしょう。逆に、気分は落ち込んでおっても、心がキリストの愛で深く慰められていて、何とか一日を支えられているという日々も、きっと味わってこられたのじゃないかと思います。落ち込んで礼拝に来て、帰る時もウキウキになっているわけじゃない。でも共におられる神様の愛に深く心を慰められて、主の御臨在を覚えながら帰る主の日はあるのです。
復活された主を見た人々の言うことを信じなかった弟子たちを、イエス様が叱られたのは、それを伝えた人々が、単に自分の言いたいことを言ったのじゃなく、主が彼らを遣わされたからです。そのために彼らに出会ったと言ってもよいのです。無論その人々も主の愛と慰めを必要としていたのです。でも、ああ主に出会った、愛を感じた、慰められたで終わり、ではないでしょう。慰めを受けた者、愛された者は、同じ愛を必要としている者たちを慰めるために主から遣わされる者だからです。そこにあるのは神様の愛です。弟子たちへの愛だけでなく、実に世界の全ての子たちを愛される神様の愛により、福音は伝えられるからです。
なのに弟子たちは信じない。まるでこれから遣わされる世界での体験を味見でもするように信じない。じゃあ、もう駄目か。信じないから、終わりなのか。そこに福音が現れるのです。イエス様は、その弟子たちを叱りながらも、それでも会いに来て下さって、叱られるのです。私は叱られている時の弟子たちの心が見えるようです。叱られているのに、なのに神様の愛を感じて、主が叱って下さった、愛して下さった、見捨てられてなかったと、主との関係の確かさを感じて、心が潤されておったに違いないのです。悔い改めるって、そうした恵みでしょう。
そして主はその弟子たちを遣わされます。信じなかった弟子たちを!だから、この弟子たちは、信じるとは一体どういうことか、知って遣わされるのです。つまり、え、聞いたのに信じんが?信じられん!言うたのに。信じないあなたが悪い、自己責任だと、相手の自己責任にして、口だけで済ますというのは、主が私たちに託された、キリストの福音ではない!ということを、この弟子たちは良く知っておったと思います。彼らの内の誰一人として、私は自分から自分の信仰によって信じた!と言い得る人はおらんからです。皆、信じなかった。皆、イエス様から叱られた。イエス様との関係があったにも関わらず、信じなかった。
その弟子たちに、託すのです。わかるろう。わたしを信じるとは、そのあなたがたの罪を背負って、死んでもあなたがたを愛して離さない、それがわたしだと信頼することだから。そのわたしが、あなたのために生きている。そしてあなたはわたしと会う。わたしがあなたに会う。
キリストを信じるとは、単にキリストについての情報を信じることではなく、この恵みのキリストを信頼することです。だから、上から目線で私は信じたき救われるという態度は、神様から恵みとして賜る信仰ではない。そして今朝の御言葉の態度でもないのです。
むしろ福音を伝えるとは、あなたにもキリストが会いに来てくださると、恵みを受けた者として証しすることだ。そのことは、信じなかった弟子たちだからこそ、ハッキリわかったと思うのです。だから、16節で「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と訳された言葉も、裁きの時「有罪宣告される」「有罪判決を受ける」と注意する言葉です。信じる者が救われるのは、この有罪判決から救われるのです。あなたの罪は赦されたと言われる主に救われるのです。
人となられた神様は、そのために死んでくださったのです。私たちの有罪を引き受けて死なれた神様なのです。それが恵みの主、十字架で死なれたキリストを、私の救い主として信じる救いです。
その信じる者に伴うしるしというのは、ハッキリ言って、にわかには信じられない、まさに神の業です。蛇が嫌いな私は特にそう思います(笑)。生半可に、俺は信じているからといった自分信仰のなせる業ではない。ちょっと試してみようと思うような頑なな心のなせる業ではない。それは、信じることが神の業だからです。
でも神の業ですから、神様が恵みとして与えて下さった信仰において、主がそこに働いて御業をなされるなら、なされます。そしてそこには人々の救いのために主から遣わされた者として、確かにその恵みのキリストを信じる者がいるのです。その私たちを遣わされるキリストは、昨日も今日も永遠に、私たちのために生きておられる神様だからです。