20/5/10復活節第五主日朝礼拝説教@高知東教会
マルコによる福音書15章1-15節、詩編24篇7-10節
「引き渡された王の願い」
イエス様は「お前がユダヤ人の王か」とピラトから尋ねられたとき、「そら、あなたが言うたことだ」と答えられて、もう何を言われても答えなくなってしまう。なんか思春期のような(笑)、えらいぶっきらぼうな態度にも思えます。もしも母マリアがここにおったら「すみません、この子いま遅い反抗期で。母の私にも、婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのか、とか言うし」(笑)。まあそれは冗談ですが、でも確かに、今の裁判の場面で言えば、被告席に立つ人の言い方ではないでしょう。裁判長から「訴えの通りですか」と尋ねられて「それはあなたが言ったことです」と返事したら、それは裁判長に対する言葉じゃないと怒られそうです。確かにそうだと思います。これはヨハネによる福音書に詳しいので後で読んでいただければと思いますが、ここでイエス様はピラトから裁きを受けながら、しかし本当は一体どなたの裁きの手にご自分が引き渡されているのかを明確にされているのです。主は今ここで、天地の造り主、全能の父である神様の、救いの裁きのもとに服しておられ、その御心のままに、全人類の罪の裁きを身代わりに引き受けておられるところだからです。
十字架に向かわれるイエス様について、何度も繰返される重要な言葉があります。「引き渡す」という言葉です。聖餐式の制定の言葉でも「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き」と読まれます。福音書を通じて「渡される」「引き渡される」と何度も繰返される、それだけ聖書が大切にする、忘れてはならない救いの言葉です。
どうして人は、自分たちの犯した罪の裁きから救われるのか。裁きとしての死、滅びから救われるのか。その裁きを代わりに引き受けて滅び捨てられるために、御子が引き渡されたからです。そこまで確実に人が罪の裁きから救われて生きられるようにと、全能の父なる神様の御手によって、十字架の呪いの死へと引き渡されてしまったからです。
無論そこでピラトはまるで操り人形のようだったのではありません。御言葉は、彼が激しく叫ぶ群衆を満足させようとして、主を十字架刑に引き渡したとハッキリ告げます。まるで告発するように。罪は罪だと。ピラトが自分で選んで行ったその罪は、私たちが犯す罪と同様に、悪として必ず裁かれます。
しかし、人が自己保身のために罪なき者を死なせるという最悪の事態をも、神様は罪人の救いのために用いることがおできになる。それが!神様だからです。全能の救いの神様として畏れ敬われ、礼拝される神様だからです。そしてそれが神様を、キリストを信じる信仰なのです。
その上で、ピラトが何で自分では罪がないと納得しちょったイエス様を結局十字架につけることにしたのか。群衆を満足させようと思って、あるいは群衆に合わせることを願ったと告げられるのは、今の私たちが通り過ごせない御言葉だと思います。
神様を畏れ敬う動機から行動を取るのではなくて、人を恐れて行動を取る問題。ペトロも先週の御言葉で、人を恐れたが故に、直感的に瞬時に恥ずかしい行動を取ったのです。自分は大丈夫だと思っていたのに。実際は人を恐れて、私はイエス様の仲間じゃないと否定してしまった。その後で、主の御言葉を思い出し、心突き刺されて激しく泣いたペトロを、まあけんど私は大丈夫やきとは通り過ごせんでしょう。同じようにピラトが、群衆に合わせようという動機から、イエス様を引き渡した。でないと何をされるか分からんと、群衆への恐れから、同調することを選んだことも、通り過ごせんと思うのです。
おそらくその群衆の先頭におったのは、既にイエス様を捕らえるため祭司長たちから闇の中に遣わされて行った群衆であったと思われます。もともと仲間だったのか、金で雇われた仲間だったかは分かりません。でもイエス様の仲間ではなかった。
その群衆が、どんどん増えるのです。祭りのため各地から来ておった群衆の中には、イエス様がエルサレム入城する時、この方こそユダヤ人の王、ダビデの子、救い主だ、ホサナ、主よ救いたまえ!と叫び祝っておった群衆もおったのに、その叫びが180度変わって、祝福から呪いに替わった叫びの中に、多くの人が飲み込まれてしまった。縄で縛られて殴られて顔が腫れあがったイエス様を見て、なんなあれ、ガッカリ、私が信じちょったがと違うやか、裏切られた!と一気に腹が立ったのか。暴動になりそうなほど顔を真っ赤にした群衆が、激しく叫び立てる。
それがピラトの心をも、悪い方へと動かします。罪のないイエス様を守る道より、皆と同じ道を選んで、自分を守る道を選んだ方がえいと。声の大きい方が勝つというのは昔からそうなのでしょう。あるいはこうも言えるでしょうか。自分の中の正しい声が小さすぎた。いや、小さくても聴くべき声を聴いていなかったからと言うべきか。
私たちは、どんな声を、そして誰の声を聴いているのでしょう。またどんな思いで聴いているのか。ほんの最近になって、私は新聞で新しい言葉を知りました。同調圧力。以前にもあった言葉かもしれませんが、素通りしていたのか。英語ではpeer pressureと言います。直訳すると仲間の圧力。日本で言えば、だって皆やりゆうき、皆そうしゆうき、の皆という圧力が動機となり、心を動かして、皆と同じ行動を取らせる。その背後にあるのは、同じことをしてないと害を受けるのではないかという不安、恐れでしょう。だから大きな声を聴いたほうがえいと。
そうした恐れの支配の中で、イエス様に倣った行動を選び取ったら、まあ反抗期のように見えるのかもしれません(笑)。単に我が道を行くのであれば問題行動ですが、誰の道を、誰のために選ぶかでしょう。皆が行く道を、自分のために選ぶのか。それとも皆が救われるために、自分を捨てる十字架の愛の道を選ぶのか。そこにイエス様を十字架へと突き動かした原動力があるからです。
私たちの王として、また羊飼いとして、人となられた永遠の御子は、自分を捨ててでも、私たちの罪を赦して受け入れて、しかも仲間として共に生きることを選んで下さいました。でもそれはバラバが裁きと刑罰から釈放されて、でもおそらく暴動を起こした仲間たちpeerのところに帰っていったようにではなく、私たちが古い生き方を捨て、イエス様の友となり、仲間となって、一緒に天の父のところに帰れるようにと、主は私たちの王として願われて、いのちを与えて下さいました。
それは私たちもまた、人を怖れるのではなく、むしろ愛して生きるため。皆という圧力に屈するのではなく、むしろ、その一人一人もまた、罪の圧力から解放されて、赦されて共に生きるためです。罪に同調する仲間として生きるのではなく、その名を愛と呼ばれる神様に同調して、アーメン!と御心を選んで、礼拝する民として、仲間として、神の家族として共に生きる。それが私たちの王としてイエス様が選んで下さった十字架の救いの道です。そのためなら、裁かれる不自由をも、あなたの代わりに受けようと。
裁かれるというのは全く不自由です。だから祭司長たちも律法学者たちも、また私たちも、裁かれるより裁く側に立とうとするのは、裁かれる不自由を心底嫌って、恐れるからでしょう。でもそうやって、裁きと罪の奴隷になって、神様の愛を選べない不自由な私たちを、だから神様が選ばれるのです。キリストが背負って、赦して救って下さって、一緒に祈って下さいます。願わくは、御名をあがめさせたまえと。その王の願い、主の祈りを、私たちはアーメンと、共に祈って生きるのです。