20/5/3復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会
マルコによる福音書14章66-72節、箴言29章25節
「人をおそれる弱さをも」
ペトロは、こんなはずじゃなかったと思ったかもしれません。なら、どうなるはずだと思ったのか。イエス様は、いつも思いを超えた奇跡を起こされた方でしたから、祈って待っていたのでしょうか。きっとまた奇跡が起こると。でも起こらない。期待していた良いことが起こらず、逆に全く別のこと、我が身に信仰の危機が襲い掛かった。そういう時、人はどうしやすいか。残念ながら、自分を守りやすい。
今リアルな危機は、突然自分の感染が明らかになることでしょうか。きっと根掘り葉掘り、どこに行って誰と接触したか聞かれます。その時もし正直に答えたら、何でそんなとこ行った、不要不急かと言われるのではと恐れたら、どこ行った?ん~私にはわからない、と案外ペトロのように言うかもしれません。忘れたとか。もう既に私たちが使ってきたはぐらかす言葉、ないでしょうか。わからん。難しい。忙しい…等々。そうやって、責められることから守ろうと頭が働く。あるいは、注意が足りませんでした、すみませんとは言っても、私が間違っていました、ごめんなさいとは言いたくないのが人間でしょうか。
ペトロもどんどん自己防衛がエスカレートしていきます。はぐらかしから、打消しへ。その時どうもガリラヤ訛りもバレたようです。例えば東京で、知らんちや、俺関係ないき、知らんぜよ、と言うようなもんでしょうか。だってそれ土佐弁でしょ、と笑われた後、こう言うのです。もし俺が仲間やったら、我が身は呪われよ!俺は違うと、きっとペトロは思ってもないことを言ってしまって、取り返しがつかんなるのです。そこまで自分を守りたいという人間の弱さ、自己中心の罪の暗さが浮き彫りにされてしまう現実は、私たちの知る現実じゃないでしょうか。
前に主が、人の子を裏切る者は生まれなかった方が良かったと言われたのは、AかBかどちらかだという選びを好むユダヤ的表現だと申しました。その意味で言うなら、このペトロの信仰は、うんとユダヤ的かもしれません。曖昧と甘えが通用する日本だと、う~んとか、分からんと言い続けて、察してくれやと相手のせいにするパターンもありますが、御言葉が教えるのは、選びの神様は曖昧がお嫌いで、愛するか憎むか、祝福するか呪うか。あなたはどの関係を相手と持つか、ハッキリせよと言われるのです。十字架で、まあ大体は背負った、はないからです。
じゃあペトロは、もうダメだと思って、主を呪い憎んで、自分を愛し祝福することを選ぶつもりだったのか。そうではなかったでしょう。主を呪うつもりも憎むつもりもなかったと思います。愛していたと思います。主は素晴らしい、まことに神の子ですと祝福していたのです。でも呪ってしまった。自己保身を選んでしまった。この矛盾。矛盾だらけの人間。信仰においても!それを聖書は、はぐらかさんのです。そして、ここが急所です。その矛盾に立ち向かう道を、御言葉によって導き示すのです。
ともすると日本の教会では、信仰と罪あるいは愛と罪の矛盾は曖昧さの中に置いて、まあまあと曖昧に受容する、日本的道に迷い込む誘惑が多いかもしれません。けれど、それはいかんろうと真面目に矛盾と向き合う場合、罪と弱さばかり意識して、私はダメだとうつむくパターンもあるでしょう。あるいは、自分はしっかりしてないからというのを理由にして、しっかりしない信仰でもかまんことにするパターンに陥ることさえあるかもしれません。私は後者の誘惑に本当に弱いと思います。
ならペトロや他の弟子たちは、しっかりしていたから、ごめんなさいと立ち返ることができたのでしょうか。本当はしっかりしているけど、少し道を間違えただけなのでしょうか。そうではありません。ペトロは何で、ここで泣いたと、聖書が伝えているか。そこが急所です。
イエス様がペトロに語られた御言葉を思い出したからです。
それが私たちの矛盾に立ち向かうため、神様から与えられた恵みの道です。自分という暗闇の中に、御言葉が道を切り開くのです。御言葉は私たちの自分を信じる自信や自己愛に潜む罪や弱さや傲慢をズバリ指摘します。でも指摘して自己責任で放り出さないで、その罪と弱さで矛盾だらけの私たちを、どなたが担ぎ救ってくださるのかを、その罪が霞むくらいに見させてくださって、ここに立ち返れ、この方があなたの神だと、キリストの愛に立ち返らせるのです。ここでのみ、人は罪赦されて立ち上がり、歩み直させて下さる羊飼いイエス様に再び向き合うことができるからです。永遠に変わらない福音の言葉によって、キリストを信じる信仰が与えられるから、だから十字架の恵みの主の御言葉によってのみ、人はごめんなさいと悔い改められる。ペトロも私たちも、だから自分の罪から救われるのです。
ペトロのように、その御言葉を最初に聴いた時は、そんなことはないと思っても。自分には当てはまらん、自分はもっと正しいと思っても。御言葉が間違っているとさえ思っても!でも、その御言葉によって知るのです。自分が間違っていた、自分は正しくなかった。正しいつもり、信仰も愛もあるつもり。でも、なかったと。そして、それなのに、その私のために、主は共にいて救ってくださると。御言葉によって、知って信じて、立ち上がる者とされるのです。
このペトロの否定を四つの福音書すべてが記します。主の十字架の死を知ることと同じくらい、どうしても知らなければならない自分たちの姿があるからでしょう。私たちは間違っていて、自分が思うほど正しくないし、信仰もない。その私たちが、でもペトロのように立ち上がれるのは、全くもって自分の力によらず、自分の愛によらず、自分の信仰によるのではなくて、その私たちを背負い立ち上がらせるために、死んで立ち上がられた主イエス・キリストの愛によるのだと、御言葉が私たちを、キリストの前に立たせてくれるのです。
自分が正しくなくてよい。キリストを死なせられた神様が正しい!と自分を捨てて神の義を第一とする、恵みの道がそこに開かれる。そしてその道そのものであられるイエス様が、わたしについてきなさいと招かれるのです。その道を、ありがとうございますと歩めばよい。その平安を、私たちもペトロと共に証しするのです。