14/4/13棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、イザヤ書53章 「わたしを守るキリストの義」

14/4/13棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、イザヤ書53章

「わたしを守るキリストの義」

 

今共にイザヤ書53章を聴きました。それは一つには今週が教会の暦で受難週、キリストが十字架で苦しみ死んで下さったことを、改めて私のための苦しみとして覚える週だからです。もう一つの理由はキリストによる救いの何たるかを預言したこの御言葉が、私たちの身に着けるべき正義の胸当てを、的確に言い表しているからです。特に11-12節でこう言われる。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。」正しい者とされるためにと訳された言葉、これを正義の義、義とされるためと訳し直したほうが、しっくりくるという方も多いでしょう。どの訳であれ、わかりやすく言うなら、私たちが神様の御前にあって、わたしに罪を犯す者よ、わたしの前から永遠に退けと言われ倒されてしまうのか、それとも、あなたはわたしにとって正しい者であると受け入れられ、聖なる神様の御前に立つことができるのか。それが問題です。ハムレットならこう言うのでしょうか。正しいか、正しくないか。義か、義でないか。それが問題だ。

そこで御言葉が告げるのは、あなたが正しい者とされるために、神様があなたの罪を負って死なれたのだから、あなたはそのキリストの救いの正義を胸当てとして、神様の御前に立ちなさい。そのために神様は人となられた、あなたを正しい者、義とするために!これが福音です。

更に丁寧に説きますと、私たちが自分で自分は正しいと言い張りゆう間は、キリストの十字架がわかりません。例えば、けんかして、あっちが先にやった、いや、お前が先に嫌なことした、いや、その前に…ってことばっかりですが、アダムも神様に、あなたが与えたこの女が…って言い訳をして、ずっと人類はそれを繰り返している。それを責任転嫁と言います。罪を犯した責任を、自分以外に着せて、自分は言い訳の衣を正義の衣として、罪の責任は誰かに着せる。そりゃ私も悪いけど…言うときは大体、けどの後のほうに責任があると思っている。で、お互い、あっちの責任だと責任転嫁して、その自分の判断は正しいと、自分を義と認めるのを、自己義認と言いますが、それは自分の義を胸当てとしているのです。その胸当て、しかし、自分を守れるでしょうか。そもそも何から守るのでしょうか。ごめんなさいと頭を下げて、自分の罪と非を認めることからか。どっちが正しい、いやどっちが上かの、権力闘争の負けを認めることから、自分を守ろうとする時に、私たちは自分の義の胸当てを着けるようにも思います。争いが裁判沙汰になると、法に照らして、どっちの義の胸当てが正義だったかを、他者が判断します。でも所詮、他者の判断ですから、法廷で負けても、あの裁判官は間違っていると、ずっと自分の義の胸当てを着けている。で、それを神様にも当てはめて考えるのでしょうか。所詮、他者の判断だと。そして死後、神様の御前で目が覚めて、自分がそこにいるのを見い出す神様の法廷でも、今まで着けていた自分の義の胸当てを…あれ?どこにあるろう、あれ?あれ?と、裸の自分を隠し守るために捜すのでしょうか。

私たちが生きている間、自分を義とするかどうするかを決断し裁く、こうした言わば小さな自分の法廷が続くのだと思います。それを闘いと言っても良いのです。神の武具を身につけよと命じるこの御言葉も闘いを前提とするのです。ただそれは自分で自分を義とする自分の法廷での闘いではなく、そこで私たちが神様の法廷に常に立ち続ける闘いです。この二つの法廷が、今日の御言葉を聴く私たちが、じゃあ私はどこに身を置いて生きているだろうかと自問する状況です。特に自分の正しさが問われる、イラッとするときやカチンとくるとき、人を裁いて、自分の法廷を開いて、自分が神の座にすら立っているとき、あるいは、そんなこと人から言われたくないと、責任逃れや責任転嫁をしたくなるとき、どの法廷に私たちは立つのか。

死後の裁きに引き出されるまで、神様の御前には立たないというのを神様は望まれません。わたしのもとに来なさい、いつもわたしのもとにいなさいと望まれ招かれるのが、私たちの父なる神様ですから、私たちは自分の小さな法廷なんか開かなくても良いのです。そして責任転嫁を自分で行う必要もありません。責任転嫁という言葉は、辞書で引いても悪い意味、責任逃れの意味でしか出ないと思いますが、それは先に読みましたイザヤ書の預言、キリストの負われた責任に向き合うなら、その意味は180度変わるのです。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。」責任転嫁をしてまでも自分を守ろうとする私たちが、しかし神様の法廷で守られるため、私たちの心の内までも見ておられる聖なる神様の法廷で、私たちの罪を心の底からご存じの神様から、それにもかかわらず正しい者と認められるために、受け入れられて生きられるために、キリストは私たちの罪の責任を自ら負われて、父よ、これらの罪の責任を、わたしに転嫁して、彼らを罰から逃れさせて下さい、その代わりに、わたしが逃げないで、十字架に張り付いて、全部の責任を負いますから、父よ、彼らを赦してください!と、全ての罪の責任転嫁を十字架で引き受けられた。それが聖なる三位一体の神様が選ばれた、真実の責任転嫁による救いです。

永遠の御子なる神様が人となられて、罪なき神の独り子が、罪人のひとりに数えられ、聖なる裁きと怒りと罰とを引き受け死んで下さった。だから、その責任転嫁は私のためです、キリストは私の救い主ですと、十字架の赦しに身を寄せる全ての者は、十字架で御子を裁かれた聖なる父から、あなたをキリストの故に正しい者と宣言すると、神様の法廷で保証されるのです。その義、自分で勝手に保証する義でなく、キリストが転嫁してくださったキリストの義を、私たちは義の胸当てとして身に着けて、神様の御前に出るのです。

ですから私たちは自分勝手な責任転嫁を今後する必要がありません。私がこれをしたのはあの人のせいだとか、神様が私に望まれる正しいことを私がしてないのは、それは…と間違った責任転嫁をしなくてよい。むしろこの私の罪を、キリストがご自分のせいにして父に裁かれ見捨てられ死んで下さった。私が受けるべき裁きを受けて苦しんで下さった。それで十分と、神様の御前に出て生きるのです。私にとっての責任転嫁は、キリストの十字架、それしかないのだと。三位一体の神様が、これで私たちを救おうと選んで下さった、十字架の上での喜ばしい交換を、神様、私も選びます、キリストよ、憐れみたまえ、自分の小さな法廷にすぐに引きこもろうとする弱い私を守ってくださいと、キリストの義をこそ胸当てとして、神様の御前で生きていく。そして死んだら、神様と顔と顔を合わせて、我が子よ、あなたとわたしは正しい関係を持っている、あなたはわたしの正しい子であると、顔と顔を合わせて父から宣言して頂ける。その日まで、キリストの義を私の義として、今日も明日も歩むのです。生涯365日、いつもいつまでもキリストの義を胸当てとして、ついにその日が来るまでの毎日を、神様の御前で歩むのです。

このキリストの義を、宗教改革者ルターは、外の義と呼びました。私の外にある義。だから私は確実に救われるし、それ故に平安を持てるのだと。言い換えれば、自分の内に救われる根拠を捜さんのです。私は正しいことをしゆうと、例えば礼拝出席して献金して祈って…そこに自分の救いの確かさを見い出そうとしない。それやりゆううちは大変です。言わば信仰的に満足した気分の時は、救いの平安があると思っているのですけど、罪の意識がのしかかる時、試練の時、神様が私に不満を持っていると感じる時、私はもっと正しくせないかん、私は正しく…これが外の義ではなく、自分が自分の内に捜す自分の義による不安です。もし神様が、キリストの責任転嫁らあ関係ないと、私の内に、私が天国行けるほど正しいかどうかを求められるなら、神様はずっと不満でしょう。確かに神様は、的確に確実にしかも真実に、私の内に罪を見い出され、それ故に私に対して不満なことは、いくらでもある。にもかかわらず!キリストの故に!キリストの恵みの責任転嫁の十字架に身を寄せて、赦しの洗礼を受けたキリストのものたちに対して父は満足されています。何故か。私の裁きが、キリストの十字架で完全に裁かれたことに、満足されているからです。キリストが全部背負われて飲み干して下さって、残っている正義の裁きがもはや一滴も残ってはないからです。そのことに父は、満足をされている。そこまで確かで完全な裁きをキリストが受け終えて下さり、そこで私の罪とキリストの義が十字架で交換されて、キリストが罪の裁きを受けて死なれ、私が義と認められて生きられる。この十字架の上での罪と義の交換、罪と義の転嫁に、父が満足されている。この決断を感謝し満足する心には、キリストの平安が宿るのです。

また、そこが私たちを誘惑する悪魔との闘いの場でもあります。その神様の満足に満足しないで、自分の正しさに満足したいと、自己満足を求めさせるのが悪魔の策略です。お前は自分の力でよくやっていると、おだてては、キリストの義の胸当てを外させようとし、あるいはお前は不信仰で罪深いと、人と比べたり、自意識過剰にさせようと、自分だろ自分だろ、所詮キリストより自分だろと、おだて責めたて、あらゆる手を尽くして私たちの心を、自分の義で支配しようと攻撃をやめない。

その私たちに主の御言葉は、嘘の言葉に振り回されないで、キリストの真理を腰に締め、キリストの義の胸当てを着けて立ちなさいと、神の武具、イエス・キリストの救いを身にまとい、キリストの恵みによって身を守ることを教えるのです。キリストの義に常に守られ、父が満足されるキリストの義に満足する者たちを、また父は満足されます。そこで父の子としての成長もするのです。闘いは死ぬまで続きますけど、死ぬまで守られ続けられます。死んだときにこそ、守られていることを確信するでしょう。いや、もう確信なんて必要ない。その時、目の前に仰ぎ見る主を、私の義よ!と褒め称えつつ、人は復活に立ち上がるのです。