11/9/11朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:41-44、詩編110篇1-4節 「僕となられた主」

11/9/11朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:41-44、詩編110篇1-4節

「僕となられた主」

 

人がキリストを信じると言うとき、それは要するに何を信じているのでしょうか。皆さんは、キリストの何を信じておられるのか。あるいはキリストの何が信じられなくて、キリストを信じますと言えないのでしょうか。そもそも、キリストらあおらんと思うなら、信じるも何もないでしょう。他のわかりやすい例を出して言えば、俺は運命なんて信じない。運命は自分で切り開くものだ!と勇ましく言う漫画の主人公が多く登場しますが、それは運命の存在を信じない、だから、運命に私の人生を支配させることなんてのはありえないし、俺が自分の人生を支配するのだと、そういうことでしょう。本当に多いなと思います。無論、私も運命は信じません。運命って要するに、神様から人格を抜き取って機械にして、だから嫌なことがあっても、仕方ないとか、そういうもんだと納得しやすいようにして、神様という人格に向き合わないで済むような考えですから、神様を信じていると言いながら、運命を信じると言うのなら、その神様の何に向き合っているのか。要するに、その神はすべてをご支配はされてないと。神の存在は信じるが、運命が私を支配している、あるいは、神が私を守っていることも多いが、う~ん、天国に行くとか、究極的なところは神が何とかしてくれるけど、人生は運命と自分との共同作業で…とか、こういう信仰か何だかわからない、自分なりの宗教理解というのも、先の勇ましい漫画の主人公より、ひょっと多いのかもしれません。

イエス様が、どうして人々は「メシアはダビデの子だ」と言うのかと問われたとき、これと同じことが問われているのです。メシア、つまりギリシャ語に訳すると、キリスト。もとの言葉は、ヘブライ語で、油を注がれる儀式によって特別に選ばれ任職された人のことです。ダビデもまた、神様から特別に選ばれてイスラエルの王様に任職された人でしたから、その意味でダビデもキリスト、メシアだと言えますが、イエス様の時代には、当時イスラエルを支配していたローマ帝国からイスラエルを救い出すために、きっと必ずや神様が特別に選ばれた救い主、メシア=キリストを与えてくれるに違いない、ああ、きっとそうだ、だって、そうやろうと。そのキリストこそ、あの偉大なるダビデ王のように戦いに負けたことのない絶大な武力、神の力によって私たちを救い、ついにはそのときに、神の国がやってきて、イスラエルによるこの世界の支配がやってくるんだ。その支配をもたらすメシアこそが、ダビデの血筋をもって生まれるメシア、つまりダビデの子なんだと、まあ何となく多くの人が信じておった。そういう力強い指導者の出現を、信じたくなるような生活環境もありました。今の時代にも当てはまる格差社会の問題もそうでしょうか。要するに不公平で、ズルイ社会になっていて、強い人が弱い人を支配し、お金持ちは自分の好きなことをお金持ちのレベルでできるのに、貧しい人はできない。食べ物が違う。買う店も違う。昔は革命が起こりました。ナポレオン革命、共産革命、社会主義革命、力あるリーダーが人々を引っ張って、まるでメシアのように褒め称えられ、あるいは現代ならテロでしょうか。いつの時代でも革命を求める叫びがあり、この人ならやってくれそうだというカリスマ的人物に期待が集まる。私の人生にとって救いとなるような革命を、与えてくれる誰かを求める。社会問題を考える人も考えん人も、自分の求める、私に関わる、私に意味のある何らかの救いを、求める点では同じでしょう。

私たちはどのような救いを求めているのか。キリストの救いはこういう救いだと、どうして、それを求めているのか、何をわたしに求めているかと、キリストご自身が問うておられる。わたしに、どうあって欲しいのかと。

人間は、例えば愛する人に優しさを求めたり、強さを求めたり、賢さや、もうちょっと、こういう見栄えだったらよいのにとか…余り言って人間関係が気まずくなってもいかんのでやめときますが、何かを求めずにはいられないのが人間です。愛してない人に対してだって、例えば、自分を不快にさせる人には、不快にさせんとってくれと求める。関わらんとって欲しいと求めることもあるでしょう。イエス様が私たちに先ず問われるのは、私たちがどんなキリストを信じていて、どんなキリストを愛しているのか、それを自分で批判し、もし偶像を作っておったら、人生を滅ぼす有害な偽りから悔い改めて、まことのキリストに従いなさいということです。自分を繰返し信じては、都合のよいキリストを捏造してしまう人間に対して、自己批判を教えておられるとも言えるでしょうか。神様を求め、救いを求め、キリストを求めていると言いながら、もし私たちの求めているキリストのイメージをイエス様ご自身がご覧になって、え、それ、わたし?となると、私たちの救いが危うくなる。私たちが神様を信じ、その救いを信じていると思っている、それは一体、どのような理由で信じてきたのか。何を根拠に信じてきて、今の生き方になっているのか。ならばキリストがダビデの子なのは、一体どうしてそうなのか。どうしてダビデの子でないといかんのか。この御言葉によってわきまえなさいと、主は詩編110篇の御言葉を引用されます。

主なる神様が、キリストに「わたしの右の座に着きなさい」と言われている。右の座とは、王様が自分の息子に、王の実際の働きを任せて、自分の右に座らせる。言わば社長の座を息子に譲り、自分は会長として統率するような関係です。ならキリストは、単にダビデの主だと言うのでなく、神様に等しい存在であると、ダビデも言うておるじゃないか。なら、神様に等しい神の子が、それでもダビデの子であるとは、完全に神様でありながら、完全に人である救い主とは、一体どういうキリストなのか。問い方を変えれば、どうして私たちを救われるために、神様が人となられる必用があったか。

敵から救うためです。キリストの敵と言われます。神様が、キリストの敵を、その足下に屈服させられる、キリストの敵とは何でしょうか。格差を生む人か。それとも犯罪に手を染める弱い意志か。らちのあかん政治か。不完全な教育か。とにかく自分じゃない、自分以外の誰かと言うなら、その不遜に神様は怒られ、敵対されます。あなたは自分の罪に敵対しないのかと、隣人を愛さないことを罪として問われる。その神様に敵対する人間。人の罪を問う神は好きでも、私の罪を問う神様は敵だと逆らう、どうしようもない神様の敵。この敵に、人間がどうしても勝てないこの敵に、キリストが立ち向かわれて人となられた。私たちの王として、主として、代表者として、十字架という剣を背負って、この敵に敢然と立ち向かわれた。神様による罪の裁きという剣を背負って、その神様の裁きである十字架の剣の上で、自らの肉体も心も裂かれて裁かれて罰を受け、死なれる。そのために、ダビデの子孫として人となり、人間を滅ぼすためでなく救うため、神様に選ばれた王であり、主であるキリストとして、神様が人としてお生まれになって来て下さった。それは、主が十字架で私たちの代表となって裁かれ死んで、背負われた罪を全部赦して、これがあなたを愛される神様の、あなたに対する闘いである、あなたの罪は赦された。あなたはこの愛の前に悔い改めて、まことの神様を信じなさい、わたしはあなたを背負う王である、あなたはわたしに何を求めるか、わたしはあなたが帰るのを求めると、主は私たちに誠実な求めをされるのです。

この方が、私たちの罪に勝利され、全能である神の右に着座なさったキリストです。このキリストに、救われて人は生きるのです。