10/6/13朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書8:4-15、詩編1:1-3
「聴く人は祝されます」
イエス様はどんな方かと聞かれたら、忍耐強い方だと、あるいは良い意味で、あきらめない方だと言えます。私たちの救いをあきらめられない。どうやったら、この人が救われるか。忍耐強く導かれます。神様はイラレじゃない。すぐに結果を出されない。すぐに人を裁かない。だから私たちも、忍耐して、神様の愛、イエス様の救いを証できます。忍耐したら実を結ぶのだと、イエス様も励まして下さるのです。別の角度で言えば私たちに対する求めがすごいのです。ものすごく私たちを求めておられますから、そう簡単にあきらめられるわけがない。神は愛です。どうやったらこの者が救われるか。これならどうか、じゃあこれはどうかと、あらゆる導きによって私たちの救いを求められる。
また、それだけ私たちを求められる神様であればこそ、求めるということがどういうことか、よくご存知であるとも言えるでしょう。私たちも何かを求めて生きています。愛を求め、安心を求め、喜びを求めて。でもそれがおかしな方向にズレていくと、刺激を求めて道を外すということもあります。よくわかることだと思います。あるいは、どこに愛を求め、安心を求め、喜びを求めるか。例えばギリシャ神話のナルシスのように、湖に映った自分の姿に愛を求めても、それは決して満たされない。でも、そういう過ちを繰り返していない人がいるだろうかとも思うのです。神様から、いや、そこじゃないと言われているのではないか。聞く耳のある人は聞きなさい、とイエス様が大声で呼びかけておられるのは、当時の群集だけではないでしょう。皆、何かを求めてイエス様の所にやって来た。その切実な求めをイエス様は、よくご存知であったのだと思います。求めにはものすごいパワーがある。愛していると言ってもかまわないぐらいです。何かを愛しているのです。何かにこだわっているのです。けれども、その強いこだわり、求めが、神様の救いとズレておったら、何だ、求めを叶えてくれんのかと、主の譬えの中で言われるように、そこで御言葉が語られてはいても、奪われてしまう。また、信じてはいても去っていく人々がいる。この福音書を記したルカ自身、痛みを持って知っていた教会の現実であったろうと思います。教会に、ずっといるにはいても、私が求める人生を生きたいという思いに患い、洗礼を受けた頃の熱い思い、初志貫徹ができてないという現実もまた、痛みを感じずに聞き流せる人はおらんだろうと思うのです。
それだけにイエス様がここで、その時にいた群衆だけでなく、すべての時代の、すべての人々に、聞く耳のある人は聞いて欲しい、聞く耳があるだろう、あるじゃないか、だったら聞こえているはずだ。神の国の秘密、福音の良き知らせを、わたしはあなたに説き明かしたい。あなたへの良き知らせ、あなたを救う、あなたの救いの言葉として聞いて欲しいと、大きな声で言われるのです。言い続けられた、という言葉です。聞き続けて欲しいのです。そして実を結んで欲しい。初志貫徹をして欲しい。ああ、そうだった。そうだ、その通りだと信じて、御言葉を聴き続ければ、必ず実がなると言うのです。御言葉が花開き実を結びます。種が実を結ぶのです。土地は土地にしか過ぎません。主の御言葉にしがみついておったら、主が、救いの実りを下さいます。
しかし救いと言っても、天国に行けること、それだけが救いというのではありません。直訳は、解放されることです。イスラエルがエジプトの国、奴隷の家から解き放たれ、抑圧の鎖から解放されたように、解放される。それが、救われるという意味です。では何から救われるのか。それが見えないと、イエス様が旧約聖書イザヤ書の預言を引用されたように、見ていても見えない。聞いていても理解できない。救いを求めて聞いてはおっても、何だ、それは私の求める救いじゃないということになると、せっかく蒔かれた救いの言葉が悪魔に奪い去られ、あるいは、しばらくたって、やっぱり救ってくれんかったと身を引いてしまうことになるかもしれない。もしも、求めがズレておったら、いくら説明しても、ぜんぜんピンと来ない、わからない。思い違いをしたままでずっと聞いているということもあるかもしれない。そういう教会の現実をルカ自身、悲しみながら、ここに書き記したのかも知れません。イエス様もだから、譬えで話されるのです。神の国を求めている弟子たちは、何をイエス様が話しておられるか、何を求めるようにと語っておられるか、完全にとはいかずとも、神の国を求めるのだということはわかっていますから、ストレートに、神様はね、と話ができる。けれど求めがズレていて、私の罪を赦して下さる、その名を愛と呼ばれる神様の、恵みのご支配としての神の国を求めてなければ、神の国の福音は通じんのです。何か別のモノを救いとして求め、神様の恵みが私の救いだと聞けなかったら、説教の中で、主は私の犯してきた罪の裁きから、私を救って下さると語られておっても、それは私には関係ない、私は、こういう救いを求めているんだ、となると、御言葉によって解放されない。
ですから今日の御言葉を聴いて、ああ、私は説教を聴いてもすぐ忘れるし、試練に遭うと、もう信仰らあ嫌って思うし、人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれて、これじゃあ私は天国に行けないかもと、そういう救いではないのです。一般的に思われている天国のイメージと、聖書の語る神の国の内実とは随分違います。救いのイメージも、救い=天国に行ける、ではないのです。無論、天国には行けます。でも、何故かと言ったら、イエス様が私たちの罪を全部背負って、身代りに十字架で罪の裁きを負われたからです。身代りに滅びて下さったからです。だから私たちが死んで神様の前に立たされて、人生で犯してきた罪の総決算、気が遠くなるような恐ろしい私の罪の裁きを受けるとき、その裁きの中で本来、私たちが聞くべきである、有罪という裁きの宣告から、聖書が神の怒りと呼ぶ、罪に対する裁きから、ただ十字架で死なれたイエス様の故に解放されるのです。それが、敢えて言うなら、天国の救いです。無論、イエス様は、それを何よりも求められ、とにかく私たちが永遠の滅びの裁きを受けないように、十字架で私たちの罪に対する聖なる御父の御怒りを、全部引き受けて滅びて下さった。滅びて陰府に降られた。神の御子が滅びられたのです。それは私たちが滅びないためです。そのためにキリストが来て下さった。人となって滅びて下さった。
しかし、それだけが救いではありません。罪からも救われる。神様の求めに目を向けず、私はこれを求めていると、そしてその病んだ愛故に苦しんだり人を苦しめることになったり、そういう罪から解放されて、ああ、ここに私の本当に求めている幸せがあったのだと、人生の思い煩いからも解放される。その喜びも、イエス様は、そうだ、そこにわたしの喜びもある、嬉しいだろう、神の国って素晴らしいだろうと、私たちが、今、ここで、神の国の愛と喜びと平安を味わうことができるように求めて下さっているのです。
だから、聞く耳のある人は聞きなさい、と大きな声で求められます。熱心に求められるのです。自分の子供に、天国にさえ行けたら後は好きにしたらいいと願う親がおるでしょうか。そこに愛情はないでしょう。そんなはずがないのです。どうか聴いて欲しい。真実のいのちを求めて欲しい。神の国のいのちに、今も、そして永遠に生きて欲しい。洗礼を受け、イエス様の兄弟姉妹となられたキリスト者には尚のこと、わたしの兄弟、わたしの姉妹、御父の喜ばれる実を結び、神の国の祝福に生きて欲しいと願われる。それが十字架の求めです。キリストの美しい求めです。翻訳では、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、と訳されましたが、美しい良い心で御言葉にしがみつき、と訳したほうがわかりやすいでしょう。私たちが美しい花や、子供の笑顔を見て、ああ、美しいと気持ちが良くなる。同様に、私たちが自分の求めや、自分の言葉に終始しないで、神様、御言葉を下さいと、あなたの求めに生きたいのですと、幼子のように御言葉を求めるその心を神様がご覧になるとき、気持ち良くなって、嬉しくなる。そうした美しい心はまた、善悪の善ではなくて、むしろ良い土地とか、質が良いという良い心です。自分の求めを叶える言葉に勝って十字架の主の御言葉を求める美しい心を、そうだ、百倍の良い実を結ぶ、とっても良い心だと、主は喜んで認めて下さる。そこに神の国の証がなされるのです。見ている人が、ああ、これが神様かと、神様を信じて生きるって、こんなにも自由なのかと、ハッと思い違いを正されることすら起こり得る。がんじがらめの生き方から、神の国の、美しい自由に、解放されていく実りが結ばれるのです。
だから、聞く耳のある者は聞くのです。時いたって美しい実を結ぶ、主の福音の御言葉に美しい心を傾ける。自分の思い通りにならなくっても、そこに縛られることなしに、むしろそこから自由にされるために、聴き続けたら良いのです。蒔かれ続けている御言葉が花開き実をつける収穫のときを、忍耐強い主と共に、信じ期待して良いのです。