10/2/14朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書4:38-44、イザヤ書50:4-7
「神の子になってほしい」
自分のことより人のことを優先する行為に、私達は心動かされます。小さなことでもです。例えば、笑顔で人と会話するということもそうだと思います。疲れているときもあるのです。気分良好でないときもあります。それでも人と話すとき、その人のことを思って笑顔になるのは、決して作り笑顔ではないと思います。気分優先あるいは自分優先が基本の人間の国では、作り笑顔とも呼ぶかもしれません。けれど、人を騙す類の笑顔ではない、愛を優先する笑顔の内には、作られてない優しさがあると思います。
どうして人を優先するのか。読んで字の如し、ではないかもしれませんが、優先という漢字にかけて言うならば、優しさが先に立つからでしょう。優れているとも読みます。心の優れた様を表して、優しいというのかも知れません。優しさや慈しみ深さ、憐れみもそこに含まれうるでしょう。いずれも神様の恵み、慈しみを表す言葉です。神の国の何たるかを美しく描き出す心の様です。そのような優しさが先んじて、他の人を優先するのでしょう。理屈ではないと思います。人に、他人を…とか言うときは、色々理屈をつけるのですが、そもそも自分がそうするときは、後で理屈はつけれるでしょうけど、やはり優しさに突き動かされるようにしてではないでしょうか。その行為を見る私達もまた、心動かされるのです。特に苦しみにある人を優先するとき、理屈は役に立ちません。電車の優先席や車椅子専用駐車場が無視されるように、理屈では人は動きません。人の苦しみが伝わってきて、その苦しみに心動かされ、放っておけなくなるのです。
でも一方では、人を放っておけるのも人間です。自分とは関係ないと思うからでしょうか。そこには神の国は見られません。それに対立する人間の国、しかもその煮詰まって行き詰まった罪の国があるだけです。
43節で、イエス様が「神の国」と言われた言葉は、英語ではkingdom神の王国と訳される言葉で、王様の支配によって統治されている領域を言います。単なる国境や場所を言うのではありません。そのところでは支配が成り立っている。わかりやすく言えば、王が、こうせよ、と命じたら、はい、と民が返事をして、その通りに命令が実行される。これが支配です。だからイエス様が神の国のご支配によって、シモンのお姑の高熱を叱ったら熱が、はい、と言って引くのです。悪霊を叱ったら、悪霊ですから、ぐちゃぐちゃ言いながらも、それでも神様は恐いので出て行きます。神の国ではそうなのです。なのに人間は逆らって、神様に、はい、と言うことができません。神様の優しさ、慈しみ、憐れみと恵みに生き抜くことができない。それは神の国とはまったく逆の人間の国に支配された奴隷ではないかと、神様は私たちに告げられます。そして、だからこそ、神様はキリストを遣わされ、わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家から導き出した神であると、人間の罪からの解放と自由を告げる、神の国の福音を告げられるのです。私たちが信じ、また告げ知らせつつ生きているのは、この福音です。神様が、そのように私たちの救い主として来られたからです。
このとき、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人々、つまり看病をしている人々が、大勢イエス様のもとにやってきました。その人々をご覧になって、イエス様はどのようなお気持ちだったろうと思います。看病をしておった人々は、おそらくは身内の者たちでしょう。もしもその病人が、一家の大黒柱だったら、近くの親戚はもちろん、友人や近所の方々も、助け合ったのではないかと思います。少なくともイエス様のもとに運んでくるこのときには、担架に乗せて運んできたのでしょうから、二人いや四人は最低必要です。歩いて二・三キロの距離であったとしても、人一人乗せて運ぶのは骨が折れます。運ばれる方も気遣うでしょう。すまんねえ、すまんねえと言う病人に、大丈夫、もう少ししたら楽になるき、イエス様のところに行ったら楽になれるきと、励ましながらではなかったでしょうか。
イエス様は、そのような優しさ、思いやりを見て、いつも心動かされるお方です。聖書の言い方で言えば、アーメン、その通りだ、あなたのその思いやり、苦しみを共有し背負ってでも、その人を放っておけないその慈しみは正しいと、口にされたかはわかりませんけど、そのような思いでイエス様は人々をご覧になられたと思うのです。急きょ医療センターのようになったシモンの家は、さながら野戦病院のようで、相当に大変だったでしょうけど、特に今しがた高熱を癒して頂いたお姑さんを始め、苦しむということがどんなに苦しいか、身に染みておったのではないかと思います。その高熱もまた、このように神様の御業が現われるためであったかと、あるいは受け止めたかもしれません。
治癒担当のお医者さんは、イエス様一人だけです。皆が皆、行儀良く順番を守ったかどうかはわかりません。受付とかもないのです。たった一人で全員にあたられます。でも、まとめて病を叱りつけられるとかはされんのです。一人一人個別にあたられます。一人一人に手を置いて、一人一人を癒されます。手を置くというのは、幼児祝福のときにもそうするように、祝福するときに手を置きます。祝福したかったのだと思います。あなたは神様の子供なのだと、幼児祝福で一人一人の名前を呼ぶように、名前を呼んで祝福するように、一人一人に触れられるのです。神の国、イエス・キリストを遣わされた神様のご支配とは、そのような一人一人への愛のご支配です。愛する者を縛りつけ苦しめる暗闇の圧制から自由にしたいと、一人一人に触れられるのです。癒しを、まとめてすることも、あるいは不可能ではなかったと思います。断然、楽です。全能の神様として、できんことはなかったと思います。でもその全能は人間を自由にするためにキリストを世に遣わして十字架に架けられる、そういう全能であるが故に、そのような法外な救いを罪人のため可能とされる慈しみ深い全能であるが故に、まとめてするのはできんのです。人をまとめて愛するというのは、やはりできんのだと思います。神様の愛、特に、苦しんでいる人に対する神様の愛はそうなのです。口だけで愛することはできんのです。イエス様は私たち一人一人を造られた、造り主なる神様でもあられます。そのイエス様が私たちに近づいて来られて、私たちのところにまで身を低くして触れられるとき、その人が子供であろうと年老いた者であろうと、一人一人、わたしの愛する者、わたしの愛する子と、優しく手を置いて、わたしはあなたを自由にしたいと神の国の祝福をくださるのです。
そのように触れられた人々の中には、前回のように悪霊に憑かれた人も少なからずいて、その人から悪霊が追い出されます。そして、まるで捨て台詞のように、お前は神の子だと叫ぶのを、イエス様はお叱りになります。どうしてでしょう。ユダヤのヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストと呼ばれる救い主として来られたイエス様は、たとえ悪霊にそのように言われても、嬉しくも何ともないのです。それは私たち人間が叫ぶべき信仰の言葉であるからです。その私たちを悪霊からだけではなく、私たちの罪から自由にし救い出すために、イエス様はキリストとして来られたのです。悪霊追放のためではありません。ただの医者として来られたのでもありません。それらは救いに含まれ得ますが、その人が罪から救われなかったら、その人は救われないのです。私たちが死んで神様の裁きの前に立つときに、悪霊は関係ありません。病気も関係ありません。犯した罪が問われるのです。あなたはわたしの民だったか、神の国は、あなたにとって関係があったかと問われます。イエス様は後の11章で悪霊と人間との関係を教えられ、もし悪霊が追い出されても、キリストのご支配がその人の内に住まわなかったら、悪霊は再び帰ってきて、前よりもっと悪くなると警告をなさいました。悪霊もそれを知っているのです。キリストがどんな救い主、メシア、キリストとして来られたか。だから絶対に言いません。罪については言わんのです。
私たちはキリストを、悪魔が知っている以上に知るのです。キリストが来られたのは、私たち一人一人が罪赦されて、罪の支配と、その結果として訪れる永遠の裁きから解放されるためです。罪の奴隷から自由にされて、神様の子供、一人の神の子として生きるためです。それを可能とするために、全能の父なる神様は、三位一体の子なる神様を、私たち一人一人の代理者として遣わされ、一つのミッション、使命を委ねられました。それは他のどんなものにも勝って優先されるべき使命として、キリストに負わされたミッションでした。罪のない神の子が一人一人の罪の総数、全人類の罪を負い、すべての人の代理者として罪の裁きを受けて死ぬなら、その負われた罪は赦される。そして三日目に復活されたキリストを信じる全ての者に、神の子とされる恵み、永遠の命が与えられる。キリストが来られたのはそのためです。あなたがたはそのようにして自由になると告げられます。神様の恵みによって救われるのだと、キリストは、この神の国の福音を、皆に告げ知らさずにはおれんのだと十字架を担がれながら言われます。神様のご支配が、このように実行されるなら、人間は、それを妨げることはできんのです。人間を迎え入れられる神の国は、そのようにして私たちのもとに来られたのです。
人間が命じてもどうにもならん、人を死に至らせる高熱ですら、神の国のご支配には、はいと言って従います。従わないのは人間だけです。それが罪であり、人間です。人間は罪に病んでいます。身内の苦しみには優しくできても、同じ苦しみを苦しむ人が、他の町にもいることには思い至れん。わからないではないのです。自分の周りが手一杯で、それすらも十分にはできずに惨めです。だからこそ、キリストは来られました。私たちは、キリストが必要だからです。苦しみのときはもちろん、そうでないときは尚のこと、私たちを、神様の愛に向けて解き放たれる救い主、イエス・キリストが必要です。イエス様を信じて生きるとき、人は自由になるのです。私たちに本当の自由を与えるために、ご自分を十字架に縛りつけられた主の愛によって、神様に向き合って生きられます。神様の恵みに、はい、と言って、神の子として生きるのです。