13/6/30朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章22-24節、創世記35章1-7節 「ライフスタイルの土台」

13/6/30朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章22-24節、創世記35章1-7節

「ライフスタイルの土台」

 

これは教会生活の設計図です。無論、教会生活の基本は何かと問われたら、礼拝だという答えになりますが、じゃあ礼拝出席して、礼拝で何をするのか。何を期待して礼拝にのぞめばよいかと言うと、これです。うんとシンプルに絞って三つ。一つ目が洗礼を受ける前の古い生き方を脱ぎ捨てること。二つ目が心の底から新しくされていくこと。三つ目が神の形に造られた新しい生き方を身につけること。この三つです。讃美と祈り、御言葉と聖礼典、感謝と献身の徴としての献金、そして祝祷、全部この三つを目指しての礼拝行為です。え、じゃあ礼拝って自分たちのためで、神様のためにじゃないがと問われるなら、いえいえ、それが神様の願いだから、私たちが新しくされることが神様の喜びであり、そこに献身することが神様の御名をあがめることだから、この三つの急所を、神様のために、礼拝においても目指すのです。

そういう意味では、先にこれは教会生活の設計図だと言いましたが、礼拝生活の設計図と言ってもよいのです。この設計図に従って、礼拝を捧げる生活を営むとき、教会生活が形成をされていくのです。ちょっとおさらいになりますが、このエフェソ書の4章全体が教会形成の設計図だと前に申しました。どうやって教会をキリストの体として建て上げていくのか、それがこの4章に啓示されている。その教会形成の、態度と組織と活動に関する設計図が、16節までの前半で語られておりました。そして先週の17節からの後半では、そこで組織されたキリスト者たちが実際にどういう生活を営んでいくのか。教会活動が営まれる実際の現場では、じゃあどんな問題が生じやすくて、その問題の中で何を心がけてキリストの召しに、はいと従って歩めば良いのか。その要点がこの三つです。キリストに従わん古い生き方を脱ぎ捨て、心の底から新しくされ続け、神の形に造られた新しい人を身につける。言い換えればキリストを身につける。生き方をキリストに着替える。キリストするとは、そういうことです。そうしたキリスト者としての生々しい生活が、一歩一歩形成されていくことで、教会が形成されていくのです。生活形成のない教会形成はありません。ですので、この三つを覚えて下さい。心に刻んで下さい。ここが教会生活の基本です。どんな生き方を今していても、これを基本にして歩んで下さい。そしたら教会が形成されます。

まず一つ目。以前の、キリストを主としない古い人を、言い換えればキリストの召しに、はいと言わない古い生活を脱ぎ捨てる。何故なら、それは滅びに向かっているからと訳されましたが、直訳するとこうなります。以前の生き方に従って、すなわち、あざむきの欲望に従って腐り腐敗してゆく古い人を、あなたが脱ぎ捨てること。ことっていうのは、それがすぐ前21節で言われるように、私たちがキリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずのことだからです。22節冒頭に、だからという言葉がありますが、これは無理につけた言葉で、本来は、この三つのことがそれ即ちイエス様の内に学んだ救いの真理そのものだと御言葉は告げます。真理がこうだからこうしなさいじゃなくて、これが真理だ。そうやろ。あなた、そう学んだはずやおと、教会生活の基礎の基礎、生活の真理が、これ!この三つだと告げられるのです。

以前は情欲に迷わされておったというのは、相当昔からで、アダムとエバにまで遡るほど古い。そんな古い人の生活パターンをまだ繰返しておるほど人間の心は古ぼけているのですけど、じゃあどうやってアダムたちが迷わされ、欺かれたか。へびがこう言うたんです。え、神様そう言った?本当?でもホントは食べても死なんから。むしろ目が開けて、神のようになれると。言い換えれば、あなたが真理を決めるんだ。自分で。そうだろ?で、いかんと命じられておった木の実を見たら、ご存じの通り、私たちが自分らの生活でもよく知っちゅう通り、死に至る木の実が、おいしそうに見えたんです。これがあざむきの欲望です。情欲って何でそう訳したのか。訳した人もそこがウィークポイントだったのかわかりませんが、直訳は欲望です。欲のすべてが悪いわけではありません。何々したい。それが欲です。例えば天の父を礼拝したい。その欲が悪いはずがない。でもそれが、自分の好きなように礼拝したい、となるのが、あざむきの欲望です。人を愛するのだって同じです。俺の好きなように愛したい。相手の気持ちはそっちのけ。それが愛でしょうか。

そうした、あざむきの欲望に従って腐り腐敗してゆく古い人。アダムも実際に、このあざむきの欲望に従って、腐り腐敗して死ぬ人になったのです。いかんと命じられておった木の実を食べたら、死ぬと言われておったのに、いや~、えいがやないろうか、死ぬゆうたち、そんなねえと、欺きの欲望に欺かれて、御言葉の通り、真理の通り、彼は朽ちて、その体は腐り腐敗して死にました。が、その腐敗とは単に体が腐敗するだけを言うのではないでしょう。心や態度も腐るのです。自分の思い通りにならんと、よく腐ります。ふて腐れるとも言いますが、小さな子供だけではない。キリスト者であっても自分の思い通りにならんと、真理がイエス様の内にある通りになっているのに、そこで自分が間違っているということが明らかにされてしまうと、腐ってしまうということが起こるのは何故か。キリスト者であっても、私たちの肉の内に住んでいる古い欲望、欺きの欲望に従ってしまうとき、御言葉の真理が告げる通り腐っていく古い体質が残っちゅうからです。そんな古い態度や生き方、考え方、総じて古い人をそのままにして放っちょったら、腐敗が進んで当人も辛くなりますし、教会も辛いですから、だって一つのキリストの体ですから、だから、その古い生き方、古い考え方、古い態度は、脱ぎ捨てる。それがイエス様の内にある真理です。

それは教会形成の真理でもあります。無論それを律法主義的に、あんた腐っちゅうでと裁き合いよったら、教会が形成されるどころか壊れますから、と言うより、その律法主義の態度自体が、欺きの欲望そのものですから、律法主義でやりよったら、教会が腐っていきます。そのことは29節で具体的に取り上げられていますから、そのとき丁寧に取り上げます。もうね、本当に多かったのだと思います。裁きの言葉、悪い言葉で、直訳すると腐った言葉によって、教会が腐っていく。その教会の腐敗のただ中で、聖霊様が悲しまれるから、聖霊様を悲しませてくれるなと続く30節で語られる。改めて申しますけど、17節以降の御言葉は、キリスト者個々人の道徳の話ではないのです。教会を具体的に建て上げていくための、教会形成の御言葉です。そのキリストの体として形成されるべき教会は、キリストの召しに、はいと言う以前の、古い旧態依然とした態度、古い考え方や古いしゃべり方、総じて腐りゆく古い人を、キリストの体は脱ぎ捨てるのです。既にその人はキリストと共に十字架につけられて、死んだのですから、キリストが自らの内において裁かれ葬られたのですから、その古い人は脱ぎ捨てる。罪の態度を皆で捨てる教会になる。しかも恵みの態度で、キリストの態度で、共に脱ぎ捨てに励む。これが教会形成における、まずは脱ぎ捨ての部分です。

次に二つ目の、心の底から新しくされ続ける、ですが、ここサラッと行かんほうがよいのです。短い言葉ですが、ここが一つ目の脱ぎ捨てと三つ目の身につけが、連続してセットになるかならんかの急所になります。ここをサラッと忘れて、よっしゃ、古い生き方を脱ぎ捨てて、新しい生き方を身につけたらえいがやねと思って頑張っても、これ、皆さん体験があるのじゃないかと思いますが、そんなにうまくいかんのです。教会で学ぶ新しい生き方、考え方、態度を、そりゃ皆、身につけようとするのですけど、なかなか身につかんばかりか、古い態度にすぐ戻る。ああもう嫌って、ふて腐れることが多いのです。その急所が、真ん中の二つ目。心の底から聖霊様によって新しくされ続けること。これです。

ですので次週もここから説き明かしを続けますけど、そもそも古い人の本性からして、私には聖霊様の働きが必要だとわからんのです。脱ぐと身につけるを頑張ってやるのですけど、それを古い態度、自分の力で私たちは頑張ってしまいやすい。で、その結果、自分の思い通りにいかなくて、ああもうってなる悪循環がおこりやすい。その悪の循環を断ち切って新しい循環を造っていくのが、心の底、考えの底、態度の底が、聖霊様によって新しくされていくという、神様ご自身の介入なのです。

この神様の介入をこそ古い人は嫌うのです。自分の力で自分を救いたい。赦しはイエス様が必要だって、それはわかって洗礼受けたけど、後は自分でって、キリスト者になっても、神様の介入にふて腐れるのが、腐りゆく古い人なのです。その古い人を引きずっている私たちが、なおキリストと同じ姿に、新しい人に造り変えられていく途上においては、やはり私たちは日々こう祈らざるを得ない。父よ、この私の傲慢の罪を赦して下さい。聖霊様、私のこの古い心、考え方、あなたの介入なしで自分でやりたいという、古くて腐った考え方を、新しくして下さい。フレッシュで活き活きと新鮮な、新たな思いで、むしろこう祈らせて下さい。イエス様、私はあなたが必要です。聖なる三位一体の神様、私には今日も明日もずっと毎日、あなたが一番必要です。私には、あなたの介入が必要です。自分で自分を新しくできません。私を古い人の腐敗から救って下さい。私の心も態度も考えも、イエス様のようにして下さい。新しくイエス様の心と態度と考え方で、神様にも人にも向き合うことができるよう、心の底からキリストして生きられるように造り変えて下さい。そう祈る。また祈ることができるようにして下さる。それが心の底から新しくされ続けるという、教会生活の真理です。

これは皆さんの今の心の願いでしょうか。そうであれば、そこにもう聖霊様の新鮮な働きが起こっています。もしそうでないとしても、神様が介入されるなら、もうその古いままではいられません。キリストは、もう来て下さいました。神様の介入はもう始まっています。人間がそれを望まず、自分で腐っておればこそ、憐れみ深い三位一体の神様ご自身が、救いを始めて下さったのです。そこに身を置けばよいのです。御国は来ます。人は恵みによって救われます。その救いこそ必要なのです。