13/6/9朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章16節、詩編127篇 「自己責任にせん主体性」

13/6/9朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章16節、詩編127篇

「自己責任にせん主体性」

 

キリストにより。これがこの御言葉の中枢軸です。またこの御言葉を聴く私たちが、最後まで心を貫かれるべき中枢軸であり、この御言葉が全体重をかけて語る、教会形成の中枢軸です。キリストにより!これが私たちの教会を貫くとき、教会はキリストの体として成長します。教会を貫くというのは、先週のおさらいになりますが、私たちの教会の組織と活動が、キリストによって貫かれるということです。言い換えると、教会全体はキリストにより組織され、またその各々の部分が、キリストにより奉仕の活動を行うことで、教会の自己形成が、キリストによってなされていく。これが教会形成とは何ぞやを、ズバッとまとめた16節の見取り図です。キリストによる組織と活動による自己形成。

おさらいはそれまでにして、今日はその後半。キリストによる活動。とは言うものの、です。教会の活動というのは、組織なき活動ではありません。でないと、私たちの体でイメージするとすぐわかりますけど、私がコップの水を飲みたいと体に指示を出すとき、指に、つかめと指示を出し、手首にはぐにゃぐにゃせんと固定しちょけと指示を出し、肘に曲がれ、肩に上腕を縮めて…そんなことしません。無論、一つ一つの体の部分の活動を、個別に見れば、そういうことになりますけれど、頭が水を飲みたいと欲すれば体は一体となって動く。キリストの体なる教会も同じで、頭なるキリストが望まれることを、私たち教会は組織一体となって活動する。一体となって。それが3節で教会全体に命じられている霊による一致、聖霊様による教会の一致を熱心に保ちなさい、の理由でもあります。単に仲良うしなさいというのじゃない。でないと活動ができんからです。個人活動はできても、また個人の個と同じで個教会の活動はできても、それが個人主義的、個教会主義的になっちょったら、キリストの活動にはならんのです。そこにはキリストが貫かれておらんからです。だから「キリストにより」組織がなされているその通りに、「キリストにより」活動がなされる。そしたら「自ら」と教会は言えるのです。その自らというのは、自分自分の自らではありません。まして自発的な活動でないと自分の気がすまんというような、自意識過剰では到底ない。そんなナルシシストの「自ら愛によって」というのじゃありません。この自らは、キリストがご自身の体を愛の内に造り上げられるキリストの体形成の自らです。私たち一人一人をご自身に召し入れ一体とすることで、キリストが自らを建て上げられるのだと語る自らです。教会の組織と活動がキリストに貫かれるとき、そこまで自分をキリストと自己同一化して語り得る。いやキリストご自身が、それがあなたがた教会だ、あなたがたはわたしの体だと宣言して下さっているのです。

その教会の活動ですから、一体となって活動します。水を飲む譬えで言えば、体の部分の各々が、自分が何をしたかにこだわらんでもえいのです。水が飲めたら。やがてその水が自らを潤し、各々の部分も益を受け、でも何よりも、キリストご自身が喜んでおられる。それで満足じゃないですか。ああ、そのために私はこの教会の一部として組織されちゅうがやと潤されながら感じれるように、私たちは「あらゆる節々の補い」を通して組織されています。この節々というのは出会いとも訳し得ると先週申しましたが、つながりとも訳し得ます。それで直訳するとこうなります。「あらゆる補給のつながりを通して」。体で言えば、体中を巡っている血管のつながり、リンパ腺のつながり、神経のつながり。これらがつながってなかったら、補給が断たれ、部分部分が活動できんなる。

以前、私は右手の人差指の先を、神経が切断されるほどに深く切ってしもうて、おそらく何年も指先に何も感じなかったように記憶しています。指先って感覚の鋭くあるべきところなのに、ここが何も感じんと、すごく違和感があります。教会組織で言うと、指先ってどんな活動をする部署でしょうか。その人々は特に補給のつながりを必要としていると言えるかもしれません。何の補給か。キリストの愛の補給です。あらゆるつながりを通って流れて、補給されるのは、ご自分を十字架で犠牲にされたキリストの愛です。単なる愛の補給ではない。それは改めて確認したいと思います。皆さん、伝言ゲームってご存知でしょうか。例えば10人一列に並んで、ジェスチュアのほうが面白いのですが、最初の人が次の人にだけ、弟子たちの足を洗うイエス様のジェスチュアを見せる。それを順に一人一人伝えていく。すると最後、シンデレラの靴がぴったり合っておめでとう、なんてのに変化してドッと笑うのですけど、さて教会が、キリストの愛により互いに仕え合い、愛の補給、主の愛を伝えていく途中で、でもいつの間にか単なる仲良し内向きグループ愛になって、伝道活動というキリストの体の愛の根本が、変化というか劣化することもある。逆に、だから伝道だけしよったらえい、とかってキリストの愛を伝えるつもりが、愛が体内で根詰まりしちょって、伝道活動のつもりで律法主義しか伝わってなかったということもあり得ます。単なる内向き活動ではない、伝道のつもりの律法主義活動でもない、キリストに貫かれたキリスト活動を、じゃあどうやって教会は行い得るか。だから御言葉は「あらゆる補給のつながり」を、活動の絶対条件として語るのです。教会組織にキリストによって与えられたあらゆるつながりが、キリストによる補給のつながりとして、そのつながりを通して体全体にキリストの愛の補給がなされていく。すると部分部分が活動できるだけでなく、それが一体を貫くキリスト活動となる。教会活動とは、全てのつながりを通してキリストの補給が体中に行き渡り、そこで教会の部分部分が、しかし一体として、補給されているキリストの愛の活動を行うキリスト活動です。だから途中で血管が詰まらんように、キリスト補給が詰まらんように、地の果てにまで福音を宣べ伝えよとのキリストの愛と御命令が、地の果てにまで伝わるよう、つながり、活動しますのが、キリストの体である教会です。

教会の活動、教会員個々人でなす活動も、教会全体としての活動も、すべからくキリストの体としての教会の活動は、キリストの愛を源泉とし、キリストの福音を伝える活動です。教会の全ての活動はキリストの福音伝道活動の様々なバリエーションであり、また一言で言うならば、とりなしの愛に貫かれている。十字架の愛。人々の救いのために生きて死ぬ愛。自分を捨てて執り成す愛、いやそのために生まれてきたという生きる目的を達成する愛であり、私たちの内には誰ひとり自分のために生きる人も死ぬ人もないと、教会がキリストの体であることを断言するロマ書14章の御言葉の真理が証しする、十字架のキリストの執り成しの愛です。教会はキリストの執り成しの活動をするのです。

そしてその執り成し活動そのものが、体の成長につながります。興味深いのは、教会組織を語っている「しっかり組み合わされ、結び合わされて」と訳された「結び合わされて」という言葉。これはぴったり馴染んでいって、という意味の言葉です。先に指先の神経が断たれた譬えをしましたが、だんだんつながっていったのです。いきなり、ヒャッではありませんでした。キリストの愛の補給のつながりも、ああ、今日この説教を聴いたから、じゃあってんですぐに光ケーブルのようなつながりができるか言うたら、まあそうじゃないでしょう。その努力は無論必要ですし、そこで各々キリストの召しを聴いておられると思います。はい主よって、愛の召しに応えていく。あの人の執り成しに生きようって、そうだ、今日帰ったら、あるいは今聖書に挟んである教会祈りのリストに、あの兄弟、あの姉妹の名前を書き加えて祈ろうと、具体的に召しに応えて歩み出す。そのところで、でもジワジワと、つながりがぴったり馴染むようになっていく。キリストの意図された組織通りに、だんだん馴染んでくるのです。皆さん、教会外でも愛されるコリント書13章の愛の御言葉が、どんな言葉で始まるか。愛は忍耐強い。これですよ。愛はすぐには実を結ばなくても、つながりがすぐには見えずとも、忍耐強くつながるのです。そのつながりへと、この組織へと召して下さっているキリストが、忍耐強く召されるからです。わたしに従いなさい、この人をよろしく頼む、そして教会をよろしく頼むと。主への畏れを抱きつつ申しますけど、皆さんに、キリストに代わってお願いします。この教会をよろしく頼みます。辞めるんじゃないですよ(笑)、いつも言いますけど。でも御言葉を託された者として、皆さん一人一人にキリストに代わってお願いします。この教会をよろしく頼みます。この教会のあの人をまたこの人を、よろしく頼みます。そしてまだ教会につながってない、しかしキリストが十字架で命を捨てて下さった愛するこの人この人を、よろしくお願いいたします。つなげてください。そしてつながった一人一人として、キリストにつながった、キリストの体として、伝道活動に従事しましょう。各々教会の頭なるキリストから賜った賜物に応じて、できるところに従って、つながりを重んじて、執り成しの愛に生きる。できることがない、あるいは、できんなってしもうたのであるならば、できん自らを主に差し出して、まるで十字架に架けられた主ご自身のように、釘に打たれて何もできない私そのものを、聖なる生ける執り成しの生け贄として、キリストは用いて下さると信じましょう。教会全体で信じましょう。そこでこそ執り成しの愛により祈りましょう。

先日、教団21で証を聴きました。京都の洛北教会に高齢の信徒がおられた。毎週礼拝を楽しみに、前から三列目の席で主を仰いでいた。晩年は聴力をほぼ失ったが、それでも共に主の名を呼んで礼拝されていた。教会まで徒歩5分の家に住まれ、ある日、先生、足がこんなにむくんでと見て牧師はドキッとした。その朝は30分かけて来られたと言う。でもいつも通り礼拝前に来られた。30分は掛かると見越して早く出られた。そしてこの3月の受難週に天に召された、その兄弟は、皆さんの教会にもおられるでしょうとの言葉に、私は襟を正してアーメンと主の御名を崇めました。その通りです。だから教会がここにあるのです。だから私たちはキリストにつながり、そしてキリストを礼拝することができるのです。私たちがこの兄弟であり姉妹です。そしてキリストの執り成しの業をなすのです。キリストが召された僕です。必ず用いられるのです。