13/3/17朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章7節、ネヘミヤ記4章7-17節 「一人一人に大切な役が」

13/3/17朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章7節、ネヘミヤ記4章7-17節

「一人一人に大切な役が」

 

一人一人にキリストの恵みが与えられている。一人一人に!つまり、のけものは一人もおらんということです。キリストの恵みを受けてない人は、その教会には一人もおらん。例外なしです。キリストに結ばれ、教会に属している人は、皆例外なく、キリストの賜物のはかりに従って恵みを与えられています。気付いていても、いなくてもです。

賜物のはかりというのは、こう考えたら良いでしょう。はかりを英語でメジャーと言いますが、お料理でメジャーカップという量り升に薄口醤油100ml、ごま油50mlとか量る。同じようにキリストが、あなたには憐れみの賜物を100ml、あなたには施しの賜物を50ml、あなたには同じのを100mlと、ご自分の体を建て上げる賜物を恵みとして与えられた。一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられているのです。キリストのレシピとも言えるでしょうか。そのレシピに従って造り上げられるのが、教会、キリストの体です。少し先走って12節に、このレシピのゴールが記されます。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」と。言い換えればキリストの体が、体として造り上げられるためにどうしても必要な賜物が、私たち一人一人に与えられている。そこには、たったの一人だに、除け者はおらん。教会には一人一人が必要なのです。

そういう大切な賜物が、この私に与えられていると知るなら、それを人の賜物と見比べることから自由にされます。あの人、私より50ml多いとか。あの人、私より50ml少ないと見下すとか。それやってしまうと、繰り返し強調してきた聖霊様の一致を、熱心に保てんなって、変に対立したり、対抗心を持ったり、ろくなことありません。何よりキリストが悲しまれます。そんなつもりで与えたがじゃないと。一人一人に賜物を恵まれたのは、それが用られ、教会が、共に成長するためです。だから比べたらいけません。あの人はすごいけど、あの人はって、外から比べるのもです。牧師の比較も信徒の比較も。AさんとBさんを比べたら、倍ばあ違う、言い換えれば1対2とやる。賜物を対(たい)で量ったらいけません。むしろ対(つい)です。セットで見るのです。本来、共にキリストの体を建て上げるため、AさんとBさんにセットで、対(つい)  として与えられているのが賜物です。世間では、Bさんみたいにやらないかんと、比べ、比較して、差別しても、キリストの体では違います。私たち、賜物の分量は違うけどセットやね、キリストの体に結ばれて、主に共に用いられて嬉しいねえと、互いに認め合い、仕え合い、愛し合う。そこにキリストの証がされるのです。世界はキリストをそこに見るのです。私とあなた、あなたとあなたは、キリストが世を救うため違う賜物を恵まれた体の部分部分、セットであって対(つい)なのです。

それ故、賜物の種類の違いや分量の違いも、教会の一致を表します。共通ではなく、違うからこそ、そこで一致がハッキリしてくる。これは人間の作る一致ではなく、そこから差別とかが生まれる一致ではなく、霊の一致だとわかるのです。これは、恵みだとわかるのです。

恵みとは、神様から全く自由に与えられる力、富です。人間の努力や日頃の良い行いや祈りの分量に従ってではありません。だから私なんかにも与えられます。謙遜ではないです。あなたって言って怒ったらいかんので私って言ったのですが(笑)、一人一人同様に、全て全くキリストの愛の自由に従って恵まれているのが、教会を建てる、この賜物です。

賜物と訳された言葉自体、自由なという意味が強調されている言葉だそうです。贈り物と訳しても良いでしょう。贈る側の喜びや自由が強調される言葉です。オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』という物語で、夫も妻も、相手のことを一生懸命考えて、自分の一番大切な宝物を相手に贈る。はたから見たら、え、何で?損したねえというような贈り物が、でも当人達からしたら、もう最高の賢い贈り物なんです。キリストが、あなたにこれを!って、あなたに最高の贈り物を用意してくださった。こんなの贈ってもとか考えなかった。キリストが、私たちのために一生懸命に考えておられる姿を、私たちも考えてみたら良いのです。栄光の王の王が、私たち一人一人のために、深く深く考えて下さった。決して秘書任せなんかにして、あ、適当なの贈っておいてとかじゃない。王の王であるキリストが、ご自分と結ばれた一人一人の事を考えて、賢者の贈り物をくださったのです。

そのキリストの思いと共に、与えられた主の賜物を受け止めるとき、それを比べたり裁いたり、まさか自己実現のために利用したりなどせんようになるのが、キリストの贈り物である賜物です。そこでキリストを思う、そういう賜物。私の主は、どんな思いでこの賜物をって考えるとき、じゃあ実際に主が、どんな思いで与えられたか。それが語られておったのが先に見ました12節です。改めて読みます。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」。私たち一人一人に、キリストの贈り物のはかりに従って、恵みが与えられていますのは、キリストの体を造り上げるためです。コリントの信徒への手紙一12章でも同じ主の思いが語られます。「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」体全体、教会全体のために、主から恵まれた贈り物。この賜物の目的、キリストの思いをこそ熱心に意識する人は、キリストにより良く仕える人になります。より良くと言ったのは、世間のように、より実績を上げるとかじゃありません。賜物を用いて働き仕えたその奉仕への報いは、主がくださいますから、世間が評価するような、実績主義の判断は教会はしません。人の目でなく、神様を畏れ、自分の願いでなく、主の求めを、愛するからです。救われる人が少ないなら、嘆くべきです。誰かのせいにはしません。むしろ、その人のために祈ります。その人に愛をもって仕えます。私への賜物が用いられるなら、用います。それが主に対する誠実な奉仕であり、より良く主に仕える人です。それですぐ結果が出なくても、主に仕えます。人を愛します。与えられた賜物を用いて教会に仕えます。その全てを、キリストを思ってなすのです。そこに喜びの奉仕が生まれます。むしろ自由な奉仕、と言ったほうが相応しいでしょう。この奉仕をすることで自分が喜ぶかどうかという自意識過剰から自由になって、キリストの体への意識が、自ずと強くなるからです。その自由が嬉しいのです。自分自分じゃなくなって、キリストの思いに意識がいって、その御体である教会が、キリストの体が、大切な存在になっていく。賜物をキリストの恵みの賜物として、主に仕えるとき、そういう自由が生まれてきます。

改めて、この賜物が自由な贈り物であり、恵みと呼ばれていたことに心を留めるべきです。そこを飛び越して余りに早く、実践的に、じゃあ私は何をしたらえいが、何するがって、まるで何かをしてないと自分が誰だかわからんで不安になるような、そういう奉仕の理解だと、やはり自己満足になったりする。あるいは社会での自分の役割に満足しておったら、別に教会で自分の役割を見出す必要はないろうと、教会が言わばオプションになったり、いや教会は大事だと思っても、自分の何か他の必要を満たすため大事な場だと考えやすくなる。主から与えられた自由な贈り物が与えてくれる自由とは、そんな、教会に対していともたやすく自由になってしまう、自分自分の自己満足から、私たちを自由にしてくれる贈り物、キリストの恵みであるのです。こう言ってもよい。この仕える恵みに従って、キリストの体の一肢として主に仕えるとき、世界だけでなく、私も罪から救われていく自由を味わうのです。

時々おさらいをしますけど、聖書が啓示する、キリストがくださった救いとは、罪からの救いです。単に罪を犯した結果としての、罪の裁きから救われるだけでなく、裁きの原因とされる罪そのものからも救う。それがキリストの救いです。父が聖霊様を私たちに与えられ、神の右の座におられる御子と私たちを結ばれて、今私たちがキリストの体とされているのは何故か。それはなお罪深い自己実現の欲望に惑わされる私たちが、それでもキリストの恵みに従って、互いに仕え、愛し合うとき、キリストの救いが啓示されるためです。キリストは生きておられると、人は本当に変われるのだと、自分を捨てて、自分から自由に、こんな愛と自由があるなら私も欲しいと、世界にキリストが告げられるために、教会は恵みを受けたのです。キリストの自由を恵まれたのです。自分の奴隷となっておった者が、あのキリストの自由を得た。キリストの自由です。自分を捨てられるほどの自由です。天にまします栄光の御子が、地に飛び降りて、十字架を担い、神様が死にさえできる自由です。もう8節以下の説き明かしになっていますが、それを抜きにしては、パウロも賜物を語れんかったのです。私たちは、この自由なキリストと一つにされて、自分に死んで、新しく復活させられて救われます。2章では、主と共に既に復活させられたとすら語り得たほどに、私たちはキリストと結ばれて救われる。その救いの内実、罪と裁きから解放される自由を証しするため、主は教会に、自由な贈り物を恵まれたのです。

その自由の恵みに従ってキリストの体に仕えることで、自己実現から自己犠牲へと、罪の奴隷からキリストの僕へと、主から恵まれた自由をもって、自由にされる力を用いて、キリストの御業がなされるのです。自分自身も自由にされて、人をも自由にしていく恵み。それがキリストの賜物です。教会の一人一人に恵まれた、キリストの救いの賜物です。

そうやって教会の一人一人が、恵まれた賜物は違っていても、そこにこそ一致の豊かさを証しして、キリストの救いを伝えるのです。異なる賜物を用い合い、互いに仕え合うことで、教会の一人一人は違えども、しかし自分にこだわらないで、個人個人別の集団にならないで、一人の主の体、一つの体として、世界に現れる。それがキリストの体、教会です。一人一人が重んじられて、一人一人が大切なのに、自己主張がそこにないのです。一人一人が、キリストの自由を恵まれ、隣人に仕えて、ああ恵みだね、自由だねって、キリストにある幸いを共に喜ぶ。そして伝えていくのです。こんな自由へと神様は、あなたも招いておられますと、あなたは死ぬほど愛されていますと、恵みを証ししていくのです。