11/7/10朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:11-27、申命記30:15-20 「忠実な僕は報われる」

11/7/10朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:11-27、申命記30:15-20

「忠実な僕は報われる」

 

この譬えで、王と認定されて帰ってくるため遠い国へ旅立ち、やがて王として帰ってこられたこの人。この人が、全能の父なる神の右に着座なさって、この世の終りに再び帰って来られる神の御子イエス・キリストご自身であられることは、話の展開からもおわかりになられるのではないかと思います。神の都と呼ばれていた言わば総本山エルサレムに近いエリコの町に、いよいよイエス様がやってこられた!さあ、この方こそユダヤの民に神の国の勝利をもたらしてくれる救い主メシア、ギリシャ語でキリストだと、大勢の人が一種興奮状態にあったのでしょう。けんど、そのキリスト信仰はそりゃどうぜよと、中身を吟味してごらんと、イエス様が、まこと冷静に譬えを話して聞かされた。この時イエス様、エルサレムのゴルゴタの丘の十字架で、人々の罪の赦しのための犠牲となって死なれるまで、もう何日もありませんから、一層真剣だったろうと思います。いきおい厳しい裁きの警告も出てきます。当然でしょう。神様に敵対して何ちゃあ裁かれんということがあるでしょうか。でもその裁きをこそ、イエス様は十字架の上で引き受けて死なれる。だから、こうなってくれるなと必死で訴えておられます。

譬えの中にイエス様以外に登場するのは、僕と敵対者の二グループです。敵対者の代表格と言えば、当時の宗教的エリート、こんなに頑張りゆう自分らあが救われんはずがないと高ぶっていたファリサイ派の人々でしょうか。イエス様に、高ぶる者は退けられる、自分を正しいと言うのなら、どうして憐れみがないのかと、どんな神様を信じているのかと叱られて、既にこの時、イエス様を殺す計画を着々と進めていました。自分の正しさを認めてくれずに、自分を捨てて悔い改めて、他者への愛とか父の憐れみとか言うイエスらあて、救い主として、王として認めるもんかと敵対していた人々に、その人々に向かっても、憐れまない人は自分自身憐れみのない裁きを受けることになるから悔い改めて欲しいと真剣な訴えがなされているのは、聞き漏らすことができんと思います。

もう一方のグループは、僕グループあるいはイエス様の弟子グループなんですが、褒められる僕と、怒られる僕とに分かれると主は言われます。エリコに集まった群衆は、そのままエルサレムまでついて行って、イエス様万歳、王に祝福があるようにと、来週の箇所で叫んだ弟子たちの群れと同じでしょうか。そうやって賛美をしている弟子たちであれば自動的に褒められる、とはイエス様は仰っておらんのです。むしろその群集の多くが、どうもイエス様は、自分の考えている救い主じゃないと判断するや否や、十字架につけて殺せと叫ぶ敵対者になる。キリストを十字架につけるのです。

イエス様が言われる「僕」という言葉。説教題にもしましたが、ボクではありません。ひょっと電停横看板の説教題を読まれた人が、忠実なボクは報われる、いかん、ここの牧師は自惚れちゅうと思われてないか、ちょっとドキドキしているのですが、僕です。教会では馴染みの言葉のはずですが、いや、ものすごい重要な言葉なのですが、どうでしょう。私にとって、私は主の僕であるという生活が、自分の最重要課題となっているでしょうか。少なくとも、その自覚を持っているかいないかで、生活は全く違ってくるのです。生き方への態度、特に人への態度と言葉が、違ってくると思います。

僕は自分のために生きません。無論、そうは言っても罪という自己中や欲望、私私というミニファリサイ派が体の中に住んではいます。が、それと闘う態度があれば、そしてその態度がどんなに弱くても、けんどこれはイエス様がくださった態度やき、イエス様が私に求めておられるがやきと、イエス様、憐れんで下さい、聖霊様、力を下さいと、主の名を呼んでいるのなら、たとえ弱くて負け続けても、どうしてその人が僕でないでしょう。またその僕が、どうして同じように苦しんでいる人々を見下すことができるでしょう。むしろ、その人のもとに寄り添って、主の憐れみのもとに、一緒に導くことにならんでしょうか。そうやってイエス様が、あなたがたはわたしの証人となると約束してくださった。キリストは、僕である王として、十字架で死んでさえ下さった。だから私も自分を捨てて、僕として、神様にお仕えしていこう、イエス様が身をもって示してくださった僕としての生き方によって、キリストの愛と救いとを証しようと、僕は神様のために生きるのです。

この世では、神様のために生きると聞いても、漠然と雲を掴むような言葉に聞こえるのかもしれません。教会では、それは態度に表れます。キリストを私たちにお与え下さった神様の僕として生きているかどうかは、具体的に見えてくるのです。僕ですから、仕事というよりは奉仕でしょうか。無論、この世のお仕事や家事であっても、それを奉仕として行っているかどうか。また僕ですから、どんな態度で奉仕しているか。そこに神様のために生きる僕の姿が見えます。どんな神様に仕えているか、どんな神様を信じているのかが、態度を通して見えてくるのだと、イエス様は、これを譬えのイメージに託して、具体的に私たちに問われます。悪い僕は言うのです。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、何もしませんでした。自分に対するこの評価を聞いた主人は、目をパチクリさせたんじゃないでしょうか。誰ぜ、そりゃ?どっからそんな嘘情報を得たがぜ?と。イエス様が実際にこの譬えを語られたとき、そういう表情をされたんじゃないかなと、私はイエス様、うんとユーモアのある方だと思っているので、そうじゃないかなと思うのです。そんなにも強欲な主人だと思うがやったら風呂敷に包んでしまっておかず、銀行に預けて利子をもろうたらえいじゃかというくだりは、聞いていた人々も、笑って聞いたんじゃないかと思います。そうよ、主人のためを思ってやったら、銀行に預けたら良かったわ。要するに、主人のためと思ってないき、そのまま放っておいたがやろう。それに主人が本当に欲深かったら、自分で銀行に預けるろうし、なのにどうして僕に託したかを、主人の気持ちを、この僕は考えてなかったがよと、きっとわかったろうと思うのです。

それにしても、主のために何もしなかったこの僕は、どこでこんなにも悪い主の評価、判断を得たのでしょう。その判断が悪いので、この僕の態度と生活は悪くなって、主のために何もせん生き方を続けてきて、決算を受けることになるのです。でも、主が悪いと言われた悪の理由、この僕が裁きを受ける理由を主は「その言葉のゆえにあなたを裁く」と言われます。行動、行いを裁くのでなく、どうして主のために生きなかったか、その態度が現れた言葉のゆえに、あなたは裁きを受けることになると言われる。あなたは本当にわたしを、自分の得しか考えてない冷血な悪代官のように思ってきたのか、ずっとそのように見てきたのか。口うるさくて、小さな失敗も見逃さず責め立て、これで仕えているつもりかと、これで献げているつもりかと、完全主義を振りかざすようにして、実のところ、そんなのは完全に愛と憐れみの欠如した欠陥主義で、ただの威張りん坊。そんな者だと思われていたのか。しかも、あなたが言うのには、預けてないものまで取り立てて、いわれのないことで責められて、責任を問われて、言いがかりをつけられ、盗まれ、搾取され、強奪される、わたしがそういう主であったから、何もしないことにしておいた。それなら銀行に預けて利子を増やして、それでいい訳をしたらよいのに、あなたのは、言い訳になってないから、僕として生きてこなかったのを、わたしのせいにして逃げようとするから、だからあなたを裁くと言われる。それが、他の僕が褒められた理由の対極、忠実の反対ではないでしょうか。忠実でも誠実でもない。不実で卑怯な僕だから、裁きを受けると言われるのです。

主に忠実である僕とは、私たちが罪深い者であるにもかかわらず愛の誠実を尽くされる神様に対して、卑怯にならないということでしょう。十字架を見上げて嘘をつかないとも言えるし、十字架から目をそらさないとも言えるでしょうか。誠実な人の目を見たときに、目をそらしたくなる気持ちと闘う、神様に嘘をつかないで礼拝をする。それが僕の戦場ではないでしょうか。自分のためじゃなくて良いのです。神様のために生きたら良いのです。それが隣人のために生きる誠実な人生であり、自分に誠実な生き方でもあると、本当は知っているのです。それでも罪がうずきだし、私、私が出てくればこそ、主も、これならわかりよいだろうとお金儲けの譬え話を出してこられたのかもしれません。ここがその私、私の費やしどころだと、ここに投資すれば良いのだと。一人一人に与えられた1ムナは自分と考えたら良いでしょうか。皆、同じ1ムナを与えられ、皆同じ。これを増やしなさいと言われます。どんな自分をでしょうか。私を私のために費やすのでなく、主のために費やす生き方です。じゃあ主はどのように、ご自分を費やして下さったか。十字架で、罪を赦すため死んで下さった。罪人を愛し、貧しい人々を憐れまれ、神の国は近づいた、この神様の愛のご支配のもとに救われなさい、福音を信じたらよいのだと、人々の救いのために費やしてくださった。それは消費され浪費され、なくなったでしょうか。まるでそのように見えたとしても、無駄に愛したと思うことが仮に私たちの側にあったとしても、神様が十字架によってもたらしてくださった愛のご支配、罪の赦しと憐れみの神の国は、決して費やされ消えてしまうことはないのです。むしろ増えるのが神の国、罪に逆らって増えていくのが、神様の僕の御国であるのです。あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。そう仰ったイエス様が、これは、小さいことのように見えるけど、この小さな業にかけてごらんと励まして下さる。誠実に神様を愛し、隣人を愛して生きてごらん、そうやって神様の僕として生きることで、わたしの弟子を増やしなさい、そこに御国は来る、神様の救いのご支配が来るのだと、キリストが約束をして下さいます。神様が求めてくださるのです。神様の僕としての生きざまを、この地にキリストの愛の僕が増えることを。わたしを信じて、救いに生きよと、主がお求めであるのです。