26/8/23主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書27章45-56節、詩編22篇1-6節
「決して見捨てない理由」
「なぜ」永遠の三位一体の御子が見捨てられたのか?その代わりに、すべての罪を償われ赦された私たちが捨てられないため。神様が私たちと共におられる、インマヌエル!の犠牲の故に。
だからその身代わりとなられた御子が、罪の完全な裁きを引き受けて、完全に捨てられた証拠として、直訳は「全地の上に闇が成った」。
「成った」。そこに暗闇が来たのでなく、光が無くなった。「闇」は、空気がない空間つまり真空に似て、光がない空間の状態です。「全地」と強調された世界、空間である天と物質「地」を主が創られた時、地は「混沌」でバラバラでした。その世界に主は「光あれ」と言われ、世界は物理学的には原子が結合し全てが生まれ、互いに結ばれ合う秩序ある、御心の成るべき世界「地」となった。その全地の罪を背負われた御子の上に「全地の上に闇が成った」。せめて罪なき御子の上にだけは常にあるべき天の父の愛と憐れみの光が、無くなった。人と神様との関係、人との関係、愛と信頼の関係をバラバラにする罪を選ぶ報いは同じバラバラだから、あなたから離れ去ると、天の父は御子を「見捨て」「後に残して離れ去った」。人間が、例えば火曜と金曜の朝、ゴミになった物を捨てて振り返らず離れ去るように。御子は十字架に残されて捨てられました。私たちの代わりに。それが「共に居ない」という罪の報いと滅びだから。
本来神様の愛の光の中で共につながって生きる命を、奪うようにして、自分が!と愛をバラバラに壊して自分がと生きる人間を、ならば神様は見放して、自分だけで存在するなら好きに自分だけで存在しろ、わたしは離れ去る、光は無くなる、知るかと自己責任で裁くのか(27:4)。人が、いつもそうやって世界を、人生を、すべてを壊すように。
だから神様は、そうやない!と、共に生きるために自分を捨てて人となられて、全てを滅ぼす罪を背負われ、その滅びの闇の中で関係を失い、自分だけで残され、大声で叫ばれます。「私の神様、私の神様、なぜ私を捨てて離れ去られたのですか?」それが愛の関係を壊す罪の報いだから。
その場にいた兵士たちは、その叫びが詩編22篇の十字架の預言だとは知らなくても、理解を超えた真昼の闇と、この叫びは関係するのではと、不安を感じたのでしょう。主が死なれた後には、岩が砕ける程の地震も起こる。その時は54節「非常に恐れ」「暴力的に激しく」畏れます。「墓が開いて」は再来週に説き明かしますが、その前にイエス様が叫ばれた、エリ、エリ…という詩編の言葉の意味が分からいで、これは自分らへの復讐を神に求めたのではと恐れ、なだめようとしたのか。一人の兵士が自分らの喉の渇きを癒す発酵し過ぎで酢い安い飲物を飲ませようとする。でも残りの兵士らは、おんしゃあ、ビビるなや、エリヤが助けに来たら、ガチで神の子やき、ちと待てえやと、きっと笑えてない笑い顔で恐れを隠して強がっていた様子も、かいま見られます。
私たちも同じように強がること、あるかもしれません。自分は大丈夫。本当はそう思いたいだけなのに。そうした弱さをイエス様は受け入れて、本当に私たちとなられて、本当に神様を求めて、強がらないで叫ばれる。大丈夫じゃない、助けて、私から離れないで、怖い、私を捨てないでと。本当に弱い人となられて、私たちとなられて、私をここに残さないで!何で私を見捨てるのですか、私の神様!私のと、神様との関係にすがるのです!この後に唱和する十戒で、神様が「わたしは主、あなたの神」と宣言し約束されるように、あなたは私の神様ですという、愛と信頼の関係に、それが私の信頼するあなた、それがあなたです!と、すがる。
それが私たちを創られた、私たちを一つに結び付ける神様の光だから。私たちの闇を引き受け、だからここに光あれ!と赦しの光を与えられる神様の救いが、私の神様と呼べる、我らの父よと共に祈れる、神様から始まる関係の命が、ここで、この十字架から再び始まるからです。神様との関係、そして人との、赦しから再び始まる関係が、この御子の赦しのもとで結び直されて生まれます。神様の愛の光あれ!と。何故なら、その光が、もう私たちと共に在るから。自分を捨てて、私たちが神様と共に生きるため犠牲となられた、私たちの主となられた御子イエス様に、神様の正義の裁きが成ったから!この犠牲によって、全ての償いは完了したと宣言されたキリストの復活の朝以来、ずっと光は、在り続けます。あなたの罪は赦されたと宣言される愛と信頼の関係の光、赦しの光は、ずっと地上に在り続けます。どんなに目の前が暗く思えても、その闇を、全ての罪と呪いを完全に引き受けて裁かれたキリストの愛の正義の故に、神様は私たちと共におられる!そう呼ばれるインマヌエル、キリストが、私たちを離れることはないからです。
そのための!裁きが成ったから。神様が人と共に生きるという救いは「成る」!その世界に共に生きるのです。あなたの生活に、キリストの光あれ!と言って下さる神様が共におられて導いて下さるこの地上を、だから教会は、赦しの光、世の光として、共に歩んでいくのです。