マタイによる福音書27章32-44節、詩編22篇7-22節「救い主は自分を救わん」

26/8/16主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書27章32-44節、詩編22篇7-22節

「救い主は自分を救わん」

先に共に聴いた詩編22篇、十字架を預言した御言葉は神様に叫びます。「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください」。この預言を聴いて、その成就である新約の御言葉を聴いて、ん?御子イエス様は「わたしの力の神よ」と呼ばれた父から助けられてない。ほいたら成就してないが?と思われなかったでしょうか。「獅子の口」から救い出されてないやかと。

その答えを、十字架の救いの神様は、その獅子の口である祭司長たちの口に置くのです。その答え43節を直訳します「奴は神に頼ったのだ。今すぐ神に救ってもらえばいい、もし!神が奴を望むなら」。もし神様が御子を「望む」なら。だから救い出されません。何故なら天の父は御子を私たちの罪を全て償うための犠牲にして私たちを赦すと、御子を棄て、私たちを望まれたからです。主の祈りの言葉で言えば、天の父の「御心」は私たちだからです。皆さんに考えてほしいのです。主の祈りを祈る度、思い出してほしいのです。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」。そこで祈られているのは私たちです。父が望んでおられる私たちこそ、地上で実現するように!それを私たちは望むでしょうか。罪を赦されて父の子とされた私たちの実現。ロマ書が「神の子たちの現れ」(8:19)と呼ぶ、主が命をかけられた祈りの実現、天の父の望みを、私たち自身が、死ぬほど望んで生きて欲しいと叫ぶ御言葉がここにある。十字架でそう叫び祈られたインマヌエル、私たちと共におられる神様、私たちの王が、私たちを遠く離れることは決してない。それが神様の「力」だからです。

その「力」、赦しと憐れみと愛の力は、自分の力とか根性ではないので、主は、自分だけで十字架の横木をゴルゴタに担ぎ登る力もありません。上段26節で「鞭打ってから」の鞭打ちが当時は鞭の先に鉛玉や鋭い骨が付いて肉をそぎ、更に茨の冠による頭部の失血も多かったのでしょう。

なのに主はゴルゴタで「苦いもの」当時ケシなどを用いた鎮痛麻酔薬を口で「味わい」、麻酔だと気づいて「飲もうとされなかった」直訳は「飲むのを望まなかった」。先の御心と訳された同じ言葉です。では何を望まれたのか。私たちの身代わりに受ける裁きの杯を、全て飲むことを望まれた。私たちを償うこと、完全な償いを、それだけを望まれたから。

その償いの王の衣服を人々は詩編の預言の通りに分け合って、「これがユダヤ人の王イエスである」と御名を十字架の上に示します。この王のご支配が、どんなご支配かが、赦しの十字架によって示されるのです。

十字架で私たちの罪を負われた「王」あるいは「ご支配なさる方」を、人々は侮辱します。「通りかかった」と言われますが直訳は「側を行く」。死刑場の横をたまたま通ったのではなく、このために来て「頭を振って」自分が望む!ことを、し終わったら、来た道にUターンする。では何と主を侮辱したのか。何度も繰返し「自分を救え、もし神の子であるなら、十字架から降りろ」。これが今日の御言葉の急所です。

「自分を救え、もし神の子であるなら、十字架から降りろ」。自分を!自分を救え!何で人間は常に自分なのか。その自分を捨てて死なれる王だから、赦しを信じられるのに。私たちを、この罪から救うため、この罪を償うため、自分自分の悪と呪いとその罪の裁きから救うためにこそ、敢えて少しでも人間臭く言うならば、意地でも降りない!と決められた王だから、信じられるのでしょう。それが神の子だから!自分を犠牲にしてえいと身代わりに罪を負って死にに来られた神の子だから!自分は救わない、十字架から降りない、文字通り死んだち降りん!だって自分よりも、あなたを望むから!それが私たちに対する、王のご支配だから。それが「その民を罪から救う」ために私たちとなり、代わりに裁かれに来られた神様の「御心」、私たちの王の「望み」であるから。

この私たちの王に向き合って、私たちは何を望むのか。私たちの口に、どんな言葉を用意するのか。王への言葉です。お世辞なんかではない。それが賛美なんかではありえない。お決まりの言葉を言われても、私たちだって嫌でしょう。王に向き合い、私は私の人生の歩みにこれを望みますと何を望むのか。何と祈るのか。既に主は、この言葉だろうと用意されているのです。「御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」。主よ、その力は自分にはありません。あなたに頼り、信頼します。このために地上に降りて来られた、あなたの望みが、どうかここでなりますように。御心よりも自分の力で自分の望みをと逆らって主を忘れ獣のようになり獅子の口に飲み込まれる「悪より救い出したまえ」。救い出されるから。私たちの悪より、罪より私たちは救い出されるからです。十字架の「王」に与えられた御名「イエス」の名の通りに、即ち「主が救ってくださる」、イエス、主が救ってくださる!というお名前の通りに、自分を救わない私たちの王が、その民を罪から救って下さいます(1:21)。

だから私たちは、この王に「頼って」、自分自分の力を捨てて、我らと共におられる神様、インマヌエルの御心の道を、王と共に歩むのです。