26/8/9主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書27章27-31節、詩編24篇
「いばらの冠に輝く赦し」
何で、こんなことしたのでしょう?そういう、何で?本当に分からん、正気でやりゆうがやろうか?と思えること、あると思います。
何でと、理由が、何がその人をそのように駆り立てたか、その出所や理由が理解できんこと、きっとある。私たちだって、何でキリストらあ信じた、意味わからん、何があった?と思われているのかもしれません。
でも本当は、頭で理由を知りたいというよりは、心で共感できない、感情を共有できないということじゃないでしょうか。
この御言葉で兵士たちが行った暴力や侮辱も、あるいは私たちも似たような、それならわかる、という感情を持ったことがあるんじゃないか。
この兵士たちの感情を思うなら、例えば恨みがある人に対して、恨み晴らさでおくべきか、復讐してやる!という感情は、わかる気がします。復讐とまで行かなくても、例えば嫌なことを言われて、言い返したい!と感情が沸き上がるのと、きっと出所は同じなのです。
自分が受けた否定的マイナスを、同じように相手に受けさせることで、否定を与え返して、言わば自分のマイナスをチャラにしたい。あるいは利子付きで返して、むしろ自分が上にプラスに、上になりたい。自分が正しいと思いたいのが、自分の義を求める人間でしょう(ローマ10:3)。
相手から負わされた!と感じるマイナスの言わば感情的な負債。主の祈りで、もとの言葉では「私たちの負い目を手放して下さい、私たちも私たちに負い目を負わせた人々を手放したように」。そう天の父に祈ろうと、ここで唾を吐かれ叩かれ続けている主は教えて下さいました。でも、言わば心をえぐられたマイナスを、返せ!返さんなら、私もお返しで、えぐってやると復讐の感情が湧く。その感情を、きっと知らん人間は…どうでしょう、人となられたイエス様は、その感情をご存じだったのでしょうか。ご存じなのに、その怒る自分を捨てて、赦してくださるのか。私たちの破れ、否定、マイナス、愛と信頼の関係を壊し汚す全ての罪を、手放すき、父の家族としてやり直そう、赦すきと、主は死んで下さった。茨の冠の上から棒で頭を叩き続けてやめないこの兵士たちのためにも。
この兵士たち、もちろん感情だけでなく、その感情とセットの、何故ならという理由もあるのです。彼らは別に遠いローマから来た精鋭部隊ではなく、例えばユダヤ人と敵対するサマリア人や、ユダヤ人から汚れた異邦人だと差別され、例えば豚を飼っていたデカポリスから雇われた兵たちです。そしたら例えば騒ぎを鎮圧する時、別に仲間やないきと容赦なく剣を抜くので、そのほうが、総督の求める平和は、支配しやすい。
でもそれが平和でしょうか。兵士たちは、人間は本当にそうだと思いますが、公に見られてないところで悪魔のような顔になって、嫌な相手を否定したい感情が出て、こいつユダヤ人の王やと!と、ユダヤ人への恨みを、その王に返したのか?お前が王として、返済しろと。
その返済、クリスマスの預言で言われた「ご自分の民を救う」全負債の償いを、確かにイエス様は、王として返済なさったのです。私たちが、負の感情を抱いている相手、あるいは神様にさえ、暴力や暴力的感情・反抗によって、私が受けたマイナスをお返ししてやると与える暴力的な罪の負債を、私たちの王は、復讐とは全く違う返済の形で返されます。ご自分が身代わりに全ての罪の負債を引き受けて、十字架につけられて、罪の負債を受け切って死に切られて、これで負債は終わりにするからと。マイナスを返せと歪んだ正しさで返済を求め、復讐を求める応酬合戦は、もう終わりだと。神様がご自分を捨てて、全て償ってくださるのです。ここで終わらせよう、もうやめようと。相手の負い目を手放した、その手を十字架に打ち通されて、自分を捨てて下さった。
それが茨の冠を戴冠された、十字架の償いの王。自分を捨てて、赦すことによって、共に生きようとご支配なさる王だからです。
その右の手に持たされた「葦の棒」は例えば英国王室の戴冠式で王が持つ、上に小さな冠がついた杖の真似です。黙示録でイエス様が私たちのために屠られた神の小羊として描かれる。その小羊イエス様を描いた宗教画では小羊が長い十字架の形の王笏を持ち、そこに旗がついている絵も多くあります。旗は例えば戦場で、敵に押し込まれて、もう負けると思う時に高く自軍の軍旗が上がると、助けが来たと力が出る。しかも王の旗だったら、助かったと思う。王が来られたと。でもその旗を持つ王は、屠るためではなく、その相手を赦すために屠られて血を流す小羊です。その小羊がここで、茨の冠を載せた頭をその王笏で叩き続けられ、叩き続けられ、その狂気を私たち人間が今も王の頭に与え続けているのなら、狂っているのは、叩き続ける人間か。赦し続ける神様なのか。前にペトロが何回まで赦すべきかと問うた時、主は七の七十倍と言われた。平時なら言えても、叩かれ続けて同じことが言えるなら、それでも赦す、救われて欲しいと自分を捨てられるなら、この王は信じて良い。この王が、私たちと共におられるインマヌエル、自分を捨てた神様だからです。