26/8/2主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書27章15-26節、詩編2篇
「責任を引き受ける神様」
「どちらを釈放してほしいのか」直訳は「誰を私が釈放することを、あなた方は望むか」。望む。欲し求める。同じ言葉が神様に用いられると「御心」と訳されもします。神様も私たちのため望んでおられますから。御心を知っている主の「民」も、知らんという人も、でも自分の望みがなると嬉しいし、そうなるためにはどうすればと考える。総督ピラトも、イエス様は無実やき釈放したいと望んだ。けんどユダヤの指導者たちは、死刑としか言わんき…そうや!祭りで釈放する人は、群衆!が決めるき。群衆はメシア救い主と呼びゆうイエスを望むろう。それで自分の望みも叶うと考え「誰を…あなたがたは望むか」と問うた。これで万事うまくいくはずと、そう考えること、私たちもあるんじゃないでしょうか。
が、予想してなかった中断が入る。これも私たち体験あるでしょう。今?というタイミングで、妻の使いから、夢で見たき…え?と思ったか、は?と思ったか。その間、何と祭司長たちの根回しが上手くいくのです。その心変わりを知らんピラトが、再び「誰を…あなたがたは望むか」と問うたら「バラバを」。わずか5日前にホサナ!とイエス様を祝った同じ群衆がです。驚いて、ではキリストと言われるイエスはどうするのかと問うと、直訳は「十字架につけられろ!」。ピラトはわけがわらない展開に、直訳は「どんな悪を働いたという理由でか?」と理由を問います。が、これも多いでしょうか。問いには一切答えず「十字架につけられろ」。問答無用。何故?に答えない!何故なのかを本当に分かってなかったのかもしれません。「望み」を煽られるとは、そういうことなのでしょう。
ただ、何でこうなったのかの責任は実はピラトにもある。イエス様に対し判決を下す責任は、群衆でなく、総督にあるからです。祭司長たちを上手く出し抜けると思ったのに、思い通りに行かなさ過ぎて混乱して、つい群衆に尋ねたのか。でもそれで人々は本当に感情が収まらんなって「十字架につけられろ」と叫び続けて、暴動になったら総督として本当に責任を問われる。ピラトはどうしたか。自分を守る。最悪の裁判です。
私たちがいつも使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白するのは、他人事ではないと改めて思います。こう言い換えてもよいでしょうか。主は…人間の世の思い煩いと愚かさ、人間の自己保身のもとで、苦しみを受け、十字架につけられ、と。
そしてピラトは、私は関係ないと手を洗い、直訳は「この血から私は無実だ。あなたたちが自分で見ろ。」と全部、人々のせいにする。これは右上の頁で、イスカリオテのユダが「私は罪を犯しました、無実の血を引き渡して」と、祭司長たちに主の赦しを求めたのに、「お前で見ろ」と自己責任にされた時と、同じ言葉です。知るか、自分で面倒を見ろと。
なのに感情に引き渡された人は皆そうなのか。民は皆でこう答えます。直訳は「彼の血は私たちの上に、そして私たちの子供たちの上に」。子供は関係ある?と驚きますが、でも!なのです。「彼の血は私たちの上に!そして私たちの子供たちの上に!」。もしも無実の人の血を流したのなら、同じ報いを受けるのは当然だ、それを誓う、という裁判での宣言です。でも彼らは、何故イエス様が「十字架につけられろ」と、正義の裁きを、犯した悪の報いを受けなければならないのかの、その何故かを言えない。なのにその血は私たちの上に、しかも私たちの子供たちの上にとさえ、何故?言えるのか。人間の事だけ考えるなら、狂気としか言えない。
その何故かを、だから御言葉は、何故なら神様の救いのご支配である御国がここに突入しているからだと、何故!キリストの血が、私たちの上に、そして私たちの子供たちの上に来なければならないかを、「夢」を鍵言葉として開き示すのです。主のご降誕の最初から!人間の事だけで考えたら、婚約者マリアとの離別しか選べんかったヨセフに、主は夢で「マリアの胎の子は聖霊によって宿った。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と、何もかも人間人間人間の事だけになる罪の世に、だから神様の救いのご支配が介入してきたと現わされ、ヨセフも本当に罪から救われる。
そして今日の御言葉で、そのご自分の民が!「彼の血は私たちの上に、そして私たちの子供たちの上に」と、何故そうなのかさえ言えないまま言ったのは、それが「ご自分の民を罪から救う」「イエス」の御名による救いの成就だからです。罪の狂気に流される私たち人間となられた、主イエス・キリストがご自分の血によって救ってくださる!先にユダの罪を祭司長たちが自己責任にした御言葉でも繰返し「血」が強調されます。そのイエス様の「血の代価」によって私たちと私たちの子供たちの完全な償いが支払い切られる。主が!十字架の血で支払って下さる。それが、そのユダの場面でのエレミヤ預言で「陶器職人」と呼ばれた神様、自分で創られた陶器が醜く歪んだらそれを割ることもおできになる創り主が、いや、代わりにこの完全な器を壊して、皆を償うと決められた。だから御子が十字架につけられて、その民は救われよ!それが御心だからです。