マタイによる福音書27章11-14節、イザヤ書53章7-9節「言い返しても守れない」

26/7/26主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書27章11-14節、イザヤ書53章7-9節

「言い返しても守れない」

ここに二人の代理者が向かい合います。総督はユダヤ国民を統治するローマ皇帝の支配権威を託された代理者。それが総督ピラトです。

イエス様も代理者です。天地万物を創られ治められる御国のご支配者であられる父なる神様の代理者。それが神の子イエス様ですが、同時に、そのご支配のもと裁かれる全ての人間を裁きから守るため代理者として人となられた人の子イエス様が、この裁きの座で、互いに向き合う。

総督はローマの平和、ラテン語でパックスロマーナを守り、ローマ法による正義とローマ軍の武力支配による平和を守るために、裁きを行う。それは今も世界で終わらない戦争の理由でもあるでしょう。自分の支配の平和を守るために、自分の法の正義で相手を裁いて戦う。

そのローマ支配を守るため裁く総督の前に、イエス様は立たされます。その前にある裁きの座に、おそらくピラトは座っている。そして問う。「お前がユダヤ人の王なのか」。

ピラトがどこまでユダヤの信仰を理解していたか分かりません。もし理解してなければ、ローマ皇帝に弓引く謀反を起こす王か?と政治的に問うたことになる。でも、もし既に繰返し出て来た「ダビデの子」信仰を知っていたなら。つまり、その支配は終わることがないと預言されたダビデの王座を継ぐ約束の王、お前がその「ユダヤ人の王」、救い主か!と。しかし、どう救うと言うのか?やはりローマ支配に勝つつもりなら、ローマ支配の代理者としてお前を裁くぞと。まあ単なる宗教の理解なら、結局、宗教や神が相手だろうと、自分の支配を守るということでしょう。

そこでイエス様が「あなたが言っていることだ」と言われた。これも既に弟子のユダ、またここで訴えている祭司長たちにも言われましたが、言い換えれば、もうあなたの中で答えは決まっているのではないかと。逆に問い返すような言葉。あるいは、わたしがわたしの答えを言っても、聴けないのなら、言葉では言い返さない。わたしの命をもって、赦しで返す。恵みで返す。赦されて、天の父の家族として受け入れられ一緒に生きて行こうと、命を与え返すから、受け取って欲しいと。でもそれを、口では言い返さない、聴く耳がないなら。十字架で恵み与える他ない。

その神様の救いの姿勢、そして同時に全ての人の代表として死なれる人の子として、自分を犠牲にして何も言い返さないで罪を背負う憐れみのご支配は、先に聴きましたイザヤで、既に預言されていた通りです。

でも、その預言の知識を持っていても、その神様の赦す姿勢の意味が自分の事として分からんかったら、何で言い返さないのか?と私たちも思うのじゃないでしょうか。言い返しやと。自分の支配を守らな「お前に不利な証言」をしゆうぞと。でも何で、人は言い返すのか。そうせな、自分が不利を受けて、損をする。害を受け苦しむ。もう既に責められて苦しい。言い返して自分を守らな!と思うからでしょう。自分の正義、自分の法、自分のやり方で自分の支配と平和を守らなと、ピラトも思うから、何でお前は自分を守らんのか。「聞こえないのか」と問う。

無論、聴こえているのです。自分を守らんだけで。相手の「訴え」を、お前は死に至る罪を犯したと裁く言葉を、私たちを守るため!私たちの代わりに、背負っておられるのです。最後の審判に先立って、神様の愛の正義の御言葉に対してまるで聴く耳を持たない人間の代理人となって、その主となられ、全ての人を背負って、守っておられるのです。自分を捨てて。自己防衛しないで。言わば一方的に銃を撃ってくる軍隊の前に防弾チョッキを着ないで立って、その背後に有罪の人を隠して、撃たれ血を流し、痛みを負い、私たちを守り背負い続けているのです。

そんなこと人はしないから!何でお前は自分を守らんのか?聞こえてないのか?と問うのです。傷を負わないのか?嫌だと思わないのかと。そんなはずない!のです。皆から一方的に責められて、辛くない人らあおらんでしょう。

だから「非常に不思議に思った」、非常に「驚かせた」という言葉です。この言葉は、イエス様が救い主としてなさった癒しの御業を人々が見て、救いの御言葉を聴いて、息を飲んで畏れ驚いた時、繰返し出た言葉です。この人は本当に私たちと同じ人間か、何でこんなことができるのかと。ピラトも同じように驚いた。何でこんなことができるのか。

その答えをイザヤも、この福音書も、聖書全体が伝えるのです。何でこんなことができるのか。私たちを守るためだから!それが神様だから。そのために人となられて、代わりに自分を捨てて死ぬことができる神様だから。もしその神様の愛の姿勢が理解できなくて、恵みも、赦しも、自分のこととして分かってなくても、イエス様は、あなたは、わたしが王だと言う。その通りだ。人の無理解を背負い、疑いを負い、全ての罪を背負う、わたしが主、あなたの神だと。人がそう言うからではなく、神様が命を捨てて私たちに言われる御言葉が人を救い、守るから、そのキリストの御言葉を聴いて、あなたの王に身を委ねればよいのです。