マタイによる福音書27章1-10節、詩編130篇「売り渡す人を買い取る」

26/7/19主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書27章1-10節、詩編130篇

「売り渡す人を買い取る」

すごいことを言うと思います。「知ったことではない」。土佐弁なら「知るか」。これもドキッとする言葉でしょうか。「知るか」の直訳は「私たちにとって何だ」。つまり私に何の関係がある?関係ない。知るか。つまり、関わりたくない。責任を負いたくないのです。

でもユダは、これも直訳は「私は罪を犯しました!罪のない人の血を引き渡して」。旧約律法では、犯した罪は祭司に告白して、神様の赦しを執り成してもらうよう、主はお命じなっておられます。それが最初から、罪を償う犠牲による罪の赦し主が約束されていた救いの道だからです。その救いの道、人となられた神様が罪の赦しの完全な犠牲となられる道が、いよいよ成就されるという場面で!「知るか」と、罪人を執り成すために選ばれた祭司長たちが「関係ない」と、罪人を見捨てる。

すごい光と影の対比、すごいコントラストです。ユダが体験していた後悔の内に見える罪の闇よりも、もっと暗い罪の闇が「知るか」という姿勢には見えるのではないか。

続いて言い放った「お前の問題だ」も、直訳は「お前が見ろ」。自分で面倒を見ろ。俺らは見ない、と目を背ける。見たくもないと。

これは他人事やないと襟を正しつつも、でも自動的に、見たくないと、自分は関係ないことにしたくなる。その自分の罪の闇を知らない人は、おらんと思います。でも前の頁でペトロが「知らん、そんな人は知らん」と否定した弱さを、きっと誰もが持っている。だから、それを知らんと言われない神様が!わたしが面倒を見るきと、十字架で一切を背負って引き受けに来られた。その光をここに見るのです。キリストがその愛の光をもって私たちの罪と闇をまっすぐに見つめられ、顔を背けないで、全て引き受け飲み干して、赦しに来られた。わたしが償うきと。これが主イエス・キリストの救いの光だと、御言葉は告げるのです。

そこで祭司長たちの口に、主から預言的に与えられた言葉があります。「血の代金」。讃美歌の「血の価(あたい)もて民を救い」(191)の歌詞の出所でしょう。その価、代金が、ユダがイエス様を引き渡す代わりに、祭司長たちからもらった銀貨30枚です。それが9節で「イスラエルの子らが値踏みした者の価」、イエス様につけられた評価額です。おそらく約30万円。もしモノを買うのなら、悪くない評価額かもしれません。畑も確かに買えそうです。ただ、その畑は以降「血の畑」と呼ばれ続けます。何故か。祭司長たちがこれから死刑にするため総督ピラトに引き渡した罪人イエスの「血の代金」で買ったから。日本風に言えば縁起でもない。だから彼らが扱いに困っていた、自分たち神に選ばれたイスラエルとは関係ないと思っていた外国人の墓地にした。嫌な言い方ですが、おおのユダは面倒なことをしてくれたけんど、これで他の面倒なことも一遍に片付いた。それが当時のイスラエルの代表者たちの姿勢だった。

ただ、この畑が「血の」と呼ばれる理由を、同じユダの死を語る使徒言行録では、ユダの血と結びつけます。そして今日の御言葉も、確かに流れから言うと、ユダの死から、スッと続いて、まるでユダの死と結びつくようにして「これは血の代金だ」。だから「血の畑」と言われていると、まるでユダの血がイエス様の血と重ねられるようにして言われる。

あるいはです。何故この畑が「外国人の」直訳は「よそ者の」つまり、「自分とは関係ない人の」墓地が「血の畑」と呼ばれるようになったか。その理由を、それはその一切を、人となられた神様、キリストの血の価をもって、神様が!買い取られたからだと。私たちの罪を償い赦すため、永遠の御子を犠牲として引き渡された神様の救いのご計画と選びこそ、その理由なのだと、マタイはこれを預言の実現として語り直すのです。

この預言はエレミヤだけではなくゼカリヤの預言もミックスしながら、その代表者としてエレミヤを名指した神様の救いのご計画です。解釈が中々難しい部分。ただ、エレミヤの言う「陶器職人」とは神様、しかも、イスラエルと他の国の一切をご支配されている神様のことです(18:6ff)。なら、細かい説明を省き大胆に説き明かしますが「陶器職人の畑」とは、神様が耕され、その収穫を楽しみにしておられる、この世界でしょう。なのにその畑は神様の喜ばれる実を結ばない。神の民でさえ。その畑を、神様の畑を、それはお前たちの自己責任だ、知るか、自分がどう生きたかの責任は自分で見ろと言われる神様なのか。神様に選ばれ育てられたイスラエルの代表者たちは、そう言い放つ。あるいは教会さえ言うかもしれない。何のことを言いゆうか分からんと、繰返し、ペトロのように。まして世界はどうか。だから神様はその畑を、罪なき御子の血の代価をもって買い取られたのです。そしてそこに葬られる「よそ者」たちに、よそ者?そんなことがあるか!知るかと自己責任にして誰も見捨てたりするものか!わたしは主、あなたの神だと、御子によりご支配くださる。ユダもイスラエルも全ての畑が、そのために血を流されたキリストの命のご支配の内にあるから。だからその御国を主と共に祈り求めるのです。