26/7/12主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章69-75節、詩編51篇1-14節
「肉は弱い、本当に弱い」
「何のことを言っているのか分からない」「知らない」。言いゆう本人は知っちゅうのです。それは嘘だと。正しくないと。でもペトロ自身が知らなかった正しいことも実は言っているのではないか。そういう問答の並びです。女中の問いの直訳は「あなたは在り続けた、イエスと共に」。まるでインマヌエル、神様は私たちと共におられる!の言い換えです。確かにそうです。イエス様はずっと一緒におられた。問題は、ペトロが、そのイエス様と一緒にい続けたか。ドキッとせん人はおらんでしょう。
ペトロは最後の晩餐の後「もし、あなたと一緒に死ぬことになっても、決してあなたを否定しません」(35節)と強い意志で、数時間前に言った。それが正しいことだと知っている。でもペトロは知った。自分は正しいことを知っているけど、守れなかった。その代わりに、自分を守ったと。これもきっと突き刺さるような言葉だと思います。念のため先に言うと、いじめてるのではなくて(笑)、このペトロが知ったイエス様を!一緒に知りたいのです。この御言葉は、そういう言葉の流れになっています。
イエス様が私たちと共にいて下さる。それは全くもって唯イエス様の誠実、十字架の神様として誠実で確かな故に真実なのです。でも、もし、そうやってイエス様が共にいることは、当たり前だという態度であれば、その態度で私たちがイエス様と共にいることになるだろうか。人間関係でも、体は共に在っても、心ここに在らずで、共にいることになるのか。ペトロはこの後、どんなイエス様を知ったと思うでしょう?信頼関係は、それまでと同じだったと思うでしょうか。どの福音書もがこの肉の弱さから顔を背けないで私たちに伝えます。その目的に向き合いたいのです。イエス様を知ること、泣くほど知ることに、一緒に向き合いたい。
なお念を押して。万一!牧師が「何を言っているのか分からない」と思われたとしても、ならば尚のこと、ここに共におられるイエス様に、生けるペトロたちとして(笑)一緒に向き合いたいのです。
改めて、何で泣いたのでしょうか。自分と重ねて、自分のこととして、色々と思う。自分が悔しかったのじゃないか。こんなはずじゃなかった、自分は正しいと思っていたのに、本当にそう思っていたのにと。
でも御言葉は、イエス様が「あなたは三度わたしを否定する」と言われたのを「思い出して」、ペトロが激しく泣いたと言います。イエス様の声まで聴こえたとしたら、イエス様って思って、取り返しのつかんことをしたと思ったら、悲しみが込み上げて止まらんかったのじゃないか。
何で人間は取り返しのつかんことを分かっているのにしてしまうのか。
ペトロに予め言っておられた主は、またこうも言って下さっていました。「肉は弱い」(41節)。私たちの代表として死ぬため人となられた御子が、お受けになられた肉。苦しくて天の父にかきついて泣き叫ぶようにして祈られた人の子が苦しみの最中に言われた真実な御言葉です。肉は弱い。自分を守りたくて仕方ない弱さを持っている。自分を捨てられない弱さ、自分を捨てるより、関係を捨てさえする弱さを。でも捨てたいわけじゃないのです。本当は、自分を捨てたかった。捨てられると思っていた!なのに自分を捨てるより自分を守ることを選んでしまう肉の弱さ。その弱さをも、ペトロは自分の事として涙と共に知った。思い知らされた。でもそれは、知って良かったから、そしてペトロが知ったことを、教会は一緒に知って良かったから福音書に記した。一緒に知って欲しいと。イエス様を知るために、一緒に知って欲しいと。
ペトロが外に出て、きっと逃げ出したのもある。弱さを認めたのでもあるでしょう。認めざるを得なかった。そしたら激しく泣く以外ない。でもそれは、イエス様の御言葉を思い出して激しく泣く、強さでもある。泣いている幼子を、しかも激しく泣いている幼子を見て思うのは弱さでなく、強さじゃないか。しかも大の大人が、それもイエス様の御言葉を思い出して激しく泣く。少し言葉の形は変えてますけど、ここでペトロが「思い出した」と訳された言葉は、私たちが繰り返し聖餐式で聴く、思い出す言葉。イエス様が、わたしの記念として、わたしを思い出して、忘れないで、このように行いなさいと言われた、イエス様の御言葉です。何を思い出すのか。「これは、あなたがたのための、わたしの体である。この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしを思い出して」。わたしは本当に死ぬほど、あなたを愛している。この愛を思い出す以外に何を思い出すのか。
泣きながら思い出すのは、愛された思い出でしょう。愛されたのにと思えばこそ、ごめんなさいと、涙が込み上げる。叱られたからじゃない。捨てられたからじゃない。愛されていたと知るから涙が出てくる。この関係を捨てたくないと思って涙がこぼれるのなら尚の事、そのために命もご自分も何もかも捨てて下さった私たちの永遠の羊飼いが、私たちを捨てたいなんて思うことは決してない!ご自分を捨ててでも私たちとの愛の関係を守って下さる。そのイエス様がペトロと共におられるのです。