26/7/5主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章57-68節、ダニエル書7章13-14節
「人を受けよと選ばれて」
「言い当ててみろ」直訳は「預言してみろ」。メシア、つまりキリスト、神に選ばれた救い主だろ。神の子、つまり人になって現れた神だったら、誰が殴ったか預言できるんだろ?できないのか?神なのに。
でも私たちは知っています。罪を唯一償える神様だから、できるのに、それを選ばないのです。それが誰かを償い、愛するということでしょう。責めることができるのに、それを選ばないで、代わりに受け止めて償うことを選ぶ。自分は傷つく。わけのわからない責められ方さえするけど、本当に自分の事しか考えられなくて本当に自分が何をやっているのかが分からない小さい子供にお母さんが責められても、受け止めて、愛するように。もし、です。もし、ここで愛ゆえの沈黙を守られたイエス様が、殴った人に預言を、つまり神様の思いを伝える御言葉!を伝えられたとしたら、わたしは主、あなたの神、あなたを償い赦す神だと預言される。あるいは預言しているのに伝わらない御言葉を、ご自分の存在の全てで、ずっと忍耐して伝え続けておられる。違うでしょうか。
どうして伝わらないのか。預言してみろと言った人の顔を想像すると、あるいは自分の事として分かるかもしれません。自分の勝ちだ、自分が上だと確信している人に、なぜ愛が伝わらないかが。
それが伝わるために選ばれた言葉と言いましょうか。58節でペトロが「事の成り行きを見ようと」と訳された言葉。直訳は「ゴール、結果を見るために」という言葉です。そのゴール、行き先、結論が、すぐさま伝えられます。「死刑にしようとして」。先ず結論ありき。もう決まっているのです。後はその決まったゴールを達成するために、手段を選ぶ。いや決まったゴールに行くため手段を選ばない。「偽証」する。嘘の証言をする。自分のゴールを守るための嘘を。心が痛む御言葉です。十戒を唱和する時、じっと嘘を聴いておられるイエス様のお顔を見つめながら「隣人に関して偽証してはならない」と、自分に言い聴かせる。それができたら、生き方が本当に変わると思います。
証言。教会では、神様が私をどのように導かれたかと、生ける神様を証言することを「証し」とよく言う。偽証は、そこで嘘をつくのです。例えば、すごい信仰者だと思われたくて嘘を混ぜるような。それも先ず結論ありきです。こう思われたい。あるいはこの祭司長たちのように、勝ちたい。少し違う事を言っても、勝ちたい。勝てば官軍。力こそ正義。勝つための、考えや言葉や行いを、選んでしまう「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈りなさい」(26:41)肉は弱いからと言われたイエス様の御言葉が改めて思い出されます。
私たちの言葉、生き方、こうすると決めていることは、どんな神様を証言しているでしょうか。大祭司が「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアつまりキリストか」と言った言葉に対して、主が「あなたが言った」と口を開かれた。土佐弁風に「どの口が言うた」(笑)とも訳せるでしょうか。あなたは自分で何を言ったか分かっているか。その言葉に責任を負って言っているか。本当に神様が生きておられると信じているなら、その神様に、あなたはどんな責任を負って向き合っているか。責任を負わない神証言は、冒涜ではないのだろうか。
「しかし」と主が続けた言葉は「むしろ」という言葉です。「むしろ、わたしはあなたがたに言う」。そこで主はローマ皇帝に対しても使われる「神の子」に換えて、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と強調されます。人の子です。上か下かのイメージで言えば、上にいるイメージは神です。力があって勝つのも、正しいのも神だから、お前は神の子かと問う口も、偉そうなのか。偉い神を、力こそ正義で勝つ神を思うから、自分が正しいのも決まっていて自分は勝たなければならないという顔をして、ずっと人は、ずっと私たち人間は、この時と同じことを繰返し続けているのではないのか。
けれど主が「人の子が全能の神の右に座り」と強調された「全能」は、能力の能「できる」という言葉です。すぐ前の53節で「わたしが父にお願いできないとでも思うのか」と用いられた、いや人に勝とうと思えば、できた。自分を守ろうと思えば、できた。でも、勝たないのです!自分も捨てる。あなたがたを罪の裁きの滅びから守るために、自分は負けて、代わりに裁かれて、天の父に代わりに棄てられて、代わりに全て失って、でもあなたがたが赦しを得るためなら、それでえいと。敵を赦すことができる力が神様の「全能」だ。それが全能の神様だ、そうだろうと主は私たちに向き合われるのです。それが神様だから、私たちの身代わりに裁かれて死ぬ人になることが、できる。死んで赦してでも愛することができる。責めないで受けとめて愛することができる。だから「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(26:2)。この人の子が、全能の神様として人を背負って共にいて下さるから!人は救われるのです。この選ばれた人の子を、この神様を私たちは死ぬほど信じて良いのです。