26/6/28主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章51-56節、ホセア書11章8-11節
「滅びは御心でないから」
ここで剣を抜いた弟子の名は伏せられています。後でヨハネがペトロだとチクって(笑)、冗談ですが、でも敢えて名を伏せた。何故か。これ、私やと、私たちが御言葉に自分を発見するためかもしれません。
何で剣をなんか取ったのか。剣を取った動機。何故か。たぶん守ろうとしたのだと思います。現実には圧倒的力の差で守れないと分かったと思いますが。あるいは剣を使うと最初から決めていたからか。数時間前の過越の食卓で焼いた小羊を切り分ける長い包丁を、スッと懐に忍ばせ。
自分の剣で守ろうとした。誰を、守ろうと思ったのか。イエス様を?あるいは私が剣を取って戦ってでも守ると決めた、自分で決めたことを、守ったのか?
なのに自分が決めたことを、主は選んでくれず、肯定もしてくれず、御言葉が成されることを、選び肯定なさるのです。そして、御言葉を、あなたも選んでほしいと求められる。この言葉を聴いて、どんな気持ちになったろうと思います。何で?とショックで距離を感じて、もう無理と思って「離れ去り、逃げてしまった」のでしょうか?
そんな私たちならばこそ、主は、決して私たちを離れず、見捨てない、わたしはあなたと共にいる神、インマヌエル!だと。クリスマスの預言、罪からの救いの御言葉が実現していきます。自分より私たちを選ばれる、自分を捨てる神様によって、約束は成就されていくのです(1:22)。
御言葉を選んだ主は、自分が守られることを、既に捨てていました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか」。つまり、できるけど、お願いしない。その願いは捨てた。父の願いは「人の子が十字架につけられるために引き渡される」ことだから(26:2)。そう改めて弟子たちに教えられるのです。もし自分を選ぶなら「必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」と、自分より御言葉を選ぶのです。
無論ゲツセマネの祈りで聴いたように、人の肉の弱さを負われた主は、御心を求めながらも、自分を守りたい求めと葛藤して、もう死にたいと追い込まれるほど苦しまれます。私たちと同じ二つの愛の葛藤をされる。天の父を求める愛と、自分を求める愛の葛藤。父の救いのご支配の実現を霊は求めていても、でもそれには自分を捨てる必要がある。どちらを選ぶか。自分を守りたくないわけがないから!もう死にたいと追い詰められて、イエス様だって逃げたかった。でもそうしたら、人が赦されて救われる完全な愛と正義の十字架の救いが、どうして実現されよう!と、逃げないで、私たちの救いを選ばれるのです。
既に主は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16:24)と言われました。それは本当に口だけではなかった。また、これが決まりだと言うような魂の死んだ頭だけの正しさでもないのです。魂の精神状態は自分を守りたくて死ぬほどなのに、自分を捨てて、御言葉によって約束されている父の赦しのご支配を、父よ、そのご支配を来たらせたまえと、身を委ねるのです。
弟子たちだけでなく、群衆にも向き合われます。知ってほしいのです。あなたは何を守ろうとして剣を持ってきたのかと。考えて欲しいのです。
私たちはどうでしょう。剣や棍棒のような言葉を人の顔に向けるとき、何を守りたくて剣を取るのか。自分でしょうか。群衆のように、自分の体裁を守るためか。人前ではイエス様を捕らえようとしなかったと言われるのは、そういうことでしょう。自分は正しいという体裁を守りたい。御言葉を本当に選んだら、自分の正しさを捨てないかんなるから、嫌だ自分を守りたいと、剣を取ってしまうのか。でも剣なんかで本当に自分を守れるのか。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と、だから主は、滅びると言われたのです。人は、自分が正しいと思う同じ裁きの原則に従って、報いを受けるから。自分で抜いた剣が自分に返ってくるから。
でもだから!神様が代わりに死にに来て下さったのです。この世界の誰にも滅びてほしくないから!主は全ての人の主となられ、全ての罪と死と呪いが、ご自分に降りかかるよう償い切って、滅びを十字架の上で買い取ることを選ばれました。天の父は、この御子を、あなたが彼らの主であると選ばれていたのです。それがキリスト、油注がれて選ばれた者という御名、救いは神様が選ばれる!という恵みの宣言のお名前です。
そのキリストによる愛の選びを、だから私たちも選ぶのです。無理と思って逃げたとしても、キリストが、わたしが逃げないからと、私たちを追い詰めるのではなく追い求められた。そして、わたしの愛を選んでほしい、わたしはあなたを選んだ、わたしが主、あなたの神、あなたのインマヌエルである神だからと選ばれたのです。その愛の選びに身を委ね、私の主、私の神様とキリストを呼べばよい。そこに御国は来るから。父の救いのご支配が必ず来るから、主の祈りを口だけでなく祈るのです。抵抗する思いも、弱さも不信仰も何もかも、全て主に負っていただいて、十字架の主にお委ねし、信頼して、御言葉の愛のご支配を求めるのです。