26/6/21主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章47-50節、イザヤ書44章21-23節
「主はユダを友と呼ばれ」
「まだ話しておられるのに」。象徴的だなと思います。神様を待たない。自分のしたいことを済ませたい。先頭には、ユダがおったんでしょうか。主がおられる所を、また主がどんな方かを、知っているのはユダだから。
「裏切ろう」の直訳は「引き渡そう」。ユダは、神様がなされる救いのご支配を、人間の支配の力へと「引き渡そう」とする象徴です。だからその人間を救うために全ての人の代表として人となられ犠牲となられた人の子を、でも嫌と、人間に引き渡す象徴。神様の救いのご支配より、自分の道、人の支配を選んでしまう、私たち人間の象徴だからなのか。彼は「すぐ」イエス様のもとに近寄ります。
早く済ませたかったのだと思います。自分でも嫌なことだった。早く過ぎ去らせたかった。イエス様が過ぎ去らせて下さいと願われた十字架の杯のように。でもイエス様が自ら受け身で父の求めを選ばれたのとは、対照的です。ユダは、自分の手で済ませたいと。自分の思いを、自分で成就するために、合図も自分で決めて、主のもとに来ます。
「主よ」とは呼ないで「先生」と呼んで。最後の晩餐でも、ユダだけ「先生」と呼んだ。あの同じ言葉です。主よとは呼べんと思う負い目があるからでしょう。その負い目を、だから主が!負われて償われます。
だから「友よ」と主はユダを呼ぶ。これも対照的ですが、では何故?友と呼ばれたか。友とは何か。そこが急所です。理由は、おそらく二つ。
一つは当時の接吻が、愛と信頼の関係、友や家族関係のしるしだから。二つ目は「先生」と呼ぶ関係性の違いを、ユダに、ハッキリさせるため。
先生や主と呼ぶ関係。これらは愛が無くても!持ち得る上下関係です。でも友の関係に上下?まして愛と信頼の関係なしで友になるでしょうか。ただし上下関係でも、例えば主と僕でも、あたかも上下がひっくり返る愛の関係は持ち得る。いやここにこそ人となられた神様の強い愛の決意、こだわりがある。主は、上下はあるけど!でも!やろ?そうやろう?と。
主は私たちの主であられるから!人に仕えて下さるのです。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(20:28)と、主が既に言われた通りに。
そして、その意味で、私たちの主、そしてユダの主として!主はユダに「しようとしていることをするがよい」、直訳は「この何かのために、あなたはここにいる」と言われます。その何かとは「人の子が十字架につけられるために引き渡される」(26:2)以外にあるでしょうか。
そこに父のご支配がなされるから。人がその父に背く愛の反対の行為をも用いられて、それを償い赦すご支配を、既に主は選ばれたからです。十字架で、狂った人間支配の全てをひっくり返す救いのご支配に、父がわたしを引き渡されるのだと、その父の御手を信頼しているから。父のご支配の御手に!身を委ねているからです。
そのために人の子となられた主は、ユダがご自分に近づいて来た時、あるいは、こう思ったのじゃないか。25章で最後の審判を語られた時に、この最も小さい者は、わたしだ、と言われたように、主は近づいて来た小さいユダに、父の御手のご支配を、見たのではないか。
ユダそしてきっと人は皆、自分で自分のしようと思うことをしたくて、それをして、自分の支配を来させしようとして、でも自分をも支配できない。自分さえ思い通りにできない。それが小さい人間ではないのか。
その人間に神様がなられて、人の狂った支配を、自分自身の死の内に飲み干されて、そこに全能の父の赦しのご支配が来るのです。
そのご支配においては、十字架に引き渡された救いの支配者が、自らの死によって死を支配して、ご自分が代わりに裁かれることで、私たちへの裁きを支配なされて、人間の支配を、神様の赦しのご支配の中へと、引き渡してしまうのです。狂った人間の支配に引き渡された全ての人の神様、主ご自身が回転軸となられ、人の罪と悪の支配を、赦しと恵みのご支配へとひっくり返して下さる。主が!十字架に引き渡されることで、私たちを、神様のご支配へと、一緒に引き連れて引き渡し救って下さる。天の御国、父の救いのご支配を、主は、こうして来たらせて下さいます。
それはミケランジェロが描いた最後の審判の絵の筋骨隆々たる審判者キリストに譬えるなら、筋骨隆々たるキリストが、しかし罪人を滅びに叩き落とす代わりに、その人が受けねばらない正義の裁きを、ご自分の上に持ち上げられて、ご自分に落として陰府へと落ちて行かれる途中で、主が、ご自分が天の父と持っておられた家族関係の祝福を、その罪人に、これを代わりに!あなたにと、落ちて行かれながら、えいっと私たちに投げ与えられ、その赦しのご支配が、今、私たちの前にあるのです。
最後の審判で私たちが出会うキリスト、またユダが出会うキリストは、全く別の主でしょうか。それとも、このために、あなたはここにいる。友よ、あなたはわたしと共にここに引き渡された。そう呼んで下さる、主が共におられるなら、主よと応えて、その御国を共に求めるのです。