26/6/14主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章40-46節、詩編121篇
「だから人の重責を負い」
説教中つい眠ってしまう人への福音が、ここにある(笑)。いや本当は、イエス様への信仰が居眠りしてしまう自分を、どうしたら良いかと惑う私たちへの福音が、キリストがここに、私たちと共におられます。
40節で「わたしと共に目を覚ましていられなかった」いられなかった、と訳された言葉は「力を持ってない」という言葉です。子供に徹夜する力がないように、大人やけど起きちょく力がないということでしょうか。でも自分が、もし主と同じような重責を負ったら、眠れんがやないでしょうか。自分のために起きている力なら、おそらく持っている。だからイエス様が言われたのは「わたしと共に目を覚ましていられなかった」、イエス様と共に目覚めている力がなかった。私の救い主だと信じているのに!その救い主の事を、自分の事として祈る力がない。前にペトロが叱られた場面の言葉で言えば、人間の事を思って、神様の事を思えない。どうしても思えない。あるがやないでしょうか。じゃ、あなたはダメと、捨てられるのか?そうやってつい神様を、人と同じように思ってしまう、寝ぼけて考えてしまう私たちを、だから神様が!その身代わりになって償って赦すために、人となられた。神様はご自分を捨ててくださった!それが「人の子」です。人となられたから!苦しくて辛くて弱くて自分を守りたくて、とても負えない!罪人の身代わりに棄てられる重責を、でも、飲まな、あなた方が赦されんやか。そうながでしょう、わたしの父よ!なら「あなたの願われる、その救いが成りますように」と、人の罪と滅びを飲み干される方。この方が私たちと共におられる神様です。
そのイエス様を、本当に私たち信じているのです。でも肉が弱くて、誘惑に陥ってしまう。「心は燃えても…」の直訳はこうです。「その霊は準備が出来ているが、肉が弱い(力がなく病弱だ)」。霊。この福音書の一つの頂上とも言える山上の説教で、これも直訳は「霊の貧しい人々は、幸いである。何故なら天の国はその人たちのものだから」。自分の事だけになって神様を思わない「肉」とは別物として言われる「霊」。ご自身が霊であられる神様との関係、霊的な関係を求める本来の人間の中心が「霊」とも言える。その私たちの霊は、神様を求めて愛して従う準備ができている。それが霊ですから。その神様との関係に生きる人間を神様は死ぬほど求めておられるから、だから霊が貧しいのに、神様が!霊を求めておられるからという理由で!私たちのため、ご自分の霊を捨てに来られた御子によって、父の救いのご支配が来るのです。霊の貧しい人々のため。その神様を!父の求めを、目覚めて求めるのが祈りです。
だから主の前で、問うてほしい。私の霊は主を求めているだろうかと。目覚めさせて下さる主に向き合って、主よ、私の霊は、あなたを求めていますかと。答えを知って終わりでなく、実際に祈って欲しいのです。何故なら霊が、主よ、あなたが必要です、我らを憐れみたまえ!と主を求めるよりも、変な言い方ですが、肉の弱さのほうが強いから。まるで柔道の寝技のように、主に飢え渇いている霊に、主を愛し追い求める霊に、違うと自分の事を求め自分自分になる肉が覆い被さって霊を倒して押さえ込んで、窒息させて、今の自分で大丈夫だと眠らせる。その肉の弱さ、主を愛する力の弱さ・肉の弱さを知らん人がおるのでしょうか。
だから「誘惑に陥らぬよう」、まあ主が言われる通りでなくても自分は大丈夫だと寝ぼけ倒されて思わないよう「目を覚まして祈っていなさい」と主は言われます。それがどういう意味か、御言葉はペトロを通して見せてくれます。目を覚まして、主の事を思い、主の言葉を信じるより、ペトロは自分の決意を見て、自分への自信を見て、隠し持ったナイフを見て、大丈夫と。そして自分の肉の弱さに押さえ込まれて寝技に負けて落ちて一本取られる。二本目も、三本目も取られ、この後ナイフを抜く。夜明け前には私はイエスなんて知らないと自分を守って、泣き崩れます。
そのペトロのために!私たちのために!主はご自分を捨てて!赦して、罪の裁きと滅びとから救って下さる。自分を守らず。それが主の力です。悪を悪として退け、でもその悪に負け罪を犯し裁かれなければならない罪人を赦すために、自分が犠牲になられて、自分を捨てて、悪を退けて、人を赦して受け入れる救いの力。それが私たちの主イエス・キリストの恵みの力です。その名を愛と呼ばれる十字架の神様の力です。私たちを背負われる代表として人となられ、肉の弱さに倒されて倒されて三回も地面に倒されて祈る他に、どうしようもない苦しみに追い詰められて!でも「あなたの求めがなりますように」と、私たちの救いを求められる父の願いを求められる方です。それ以外に私たち救われようがないから。他に道が無いから。主がその赦しの道となられてご自分を捨てて下さる。それがイエス様によって来たらされる、神様のご支配の力だからです。
主は「立て、行こう」と自ら自分を捨てに行かれます。そこに恵みのご支配が来る。だから後は父のご支配に委ねて、主と立ち上がれます。倒れる者を起こしてくださる、キリストが共にいてくださるからです。