マタイによる福音書26章36-39節、イザヤ書53章1-6節「責任に潰されそうな夜」

26/6/7主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書26章36-39節、イザヤ書53章1-6節

「責任に潰されそうな夜」

先のイザヤ書で、主が「多くの痛みを負い、病を知っている」と言われていた預言。前の口語訳では、原文に近く、こう訳されていました。彼は「悲しみの人で、病を知っていた」。

人の重荷を負う悲しみの人。それが主キリストです。先週、買い物でスーパーに入るなり、ママーと悲しい声が胸に刺さりました。5歳ぐらいの女の子があたふた走り回って、幸いすぐママに呼ばれ走って抱きつきましたが泣きやめることが出来ない。私が買い物をしゆう間中、ママー、ママーと、母を呼んでいました。母がいないショックが大き過ぎて、誰も穴を埋められない悲しみ。大人も、あまりに喪失が大きくて悲しみを埋められないことはある。失う悲しみ。失って、もう取り戻せないのに、喪失が辛すぎて、嫌だと手放せない心残り、悲しみに襲われる。そんな喪失の悲しみの多くに共通する原型があるとしたら、赤ちゃんが母親のお乳を飲んでいたのに引き離されて、何で?必要やに必要やに!と泣きわめいて、ぜんぜんあきらめられない喪失の悲しみでしょうか。

この後、主は全ての人の代表として、天の父に裁かれ、棄てられる。そのために人の子となられたことを知っていても、悲しみが大きすぎて、親しい人に一緒にいてと頼む。直訳のニュアンスは「私の魂/精神は死に至るほど悲しみに囲まれ逃げ場がない、全てが悲しくて死にたい、この悲しみが続くなら生きていたくない」。追い詰められた精神状態の中で、一緒にいて、一緒に起きていて欲しいと頼む。眠らないで、一緒にいて。眠られるのも離れているように感じる、ごめんね、でもそれだけ本当に苦しい、離れないでと。言い換えれば、重荷を少しでも軽くしてほしい。重荷を渡すことはできないけど、重荷を負って潰されそうになっているわたしをほんの少しでも支えて欲しい、起きて見てくれゆうだけで良い、わたしの支えになって欲しい。時々申しますが、私自身、鬱で毎日死にたいと思っていた時、お祈りしてと頼んだ人が、きっと祈ってくれゆうと思うだけで、ほんの少しでも重荷を負ってもらっていると感じられる。そのほんの少しに本当に支えられました。

無論、自分でも祈るのです。ママーと叫ぶように。「わたしの父よ」と主も祈られる。そこで「過ぎ去らせて」欲しい「この杯を」は、御子が父から任され負わされた重荷、あるいは責任と呼んでも良いでしょう。天の父から負わされた責任がある。皆そうでしょう。わたしの父からと、信頼関係のもとで任された責任は、その信頼関係の大切さ故の重荷でもある。愛故の関係の重み、責任がある。責任を負うとは重荷を負うことでもある。色んな責任がある。家族の責任、家や様々の管理責任、人間関係での責任。重くて重すぎて逃げたい責任など幾らでもあると思う。

御子が負っていた責任は「多くの人の身代金として自分の命を献げ」、私たち全ての人を償う責任です。その代償に、父から離され棄てられる。その責任が、重すぎて悲しくて死にたいと追い詰められるほど、神様は人となられました。私たちとなられました。私たちそのままを負われたから追い詰められて死にたいほど背負われて、人の全てを償われました。

十字架刑での暴力と死の苦しみもある。でもそれは悲しいと言うより、むしろ恐いが先に立つと思います。でも、悲しみは、失う悲しみ。必要なのに取らないで取らないで、嫌だ離れたくないという喪失感がある。

人に敵対され、家族にも弟子にも理解されない時も、常に父は味方でした。その本当に支えられていた父から棄てられる。唯一の支えを失う悲しみ。父がおられたから生きて来られたのに。父に棄てられて一人で死んでいく悲しみに、耐えられるはずがないのに、なのに、「父の御心が、父の求めがなりますように」と、御子は悲しみの中で祈られました。

感情にほとんど制圧されて、言わば戦争で捕らえられた王が地面に倒され、剣で首を押さえつけられるように、悲しみと不安の剣で魂が完全に制圧されて逃げられない状況で、どうだ、神の求めに従わないと言えば解放しよう、どうだと、既にほぼ制圧された自分の魂も一緒になって、そう言え、言ってくれ、もう逃げたい、何でわたしだけ?悲し過ぎる、嫌だと叫んでいる状況で、主は祈られる。でも、わたしが求めるようにではなく、父よ、あなたが求められるようにしてくださいと。その霊も魂も肉体も何もかも、我らの父にお委ねして祈られる。

それは教会に託された主の祈りと同じ祈りです。御国が来ますように、父のご支配が来ますように。三位一体の御子が棄てられる代償で、全ての人が償われる父の救いのご支配が来ますようにと、私たちの主となられた方、その重荷・責任を父から受けて負われた私たちの主は、その魂が泣き叫ぶ中で、わたしたちの救いがなることを選んで下さいました。

だから大丈夫なのです。この方が共におられて決して見捨てないから。インマヌエル、神様は私たちと共にいてくださる!という名で呼ばれる救い主が、私たちの主でいてくださるから。今も一緒に祈って下さるから、その祈りの中に身を置いて、父の救いのご支配を求められるのです。