マタイによる福音書26章31-35節、ヨエル書3章「自分より信頼できる愛」

26/5/24聖霊降臨日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書26章31-35節、ヨエル書3章

「自分より信頼できる愛」

「皆、同じように言った」。皆、必死な顔で眉を吊り上げて言ったのでしょうか。私たちは、イエス様に何と言うのでしょうか。この先の展開を知っている者なら、いえ私はイエス様につまずくし、イエス様を否定もしますと、でもまさか開き直って本気で言う人もおらんと思います。どうでしょう。もし直接イエス様から、あなたはわたしにつまずくと言われたら、つい目を伏せるでしょうか。近年なら、何て言うがが正解?と黙る人もおるかもしれません。でも私たちを見つめられるイエス様の目を見ることができなくても、助けて下さい、主よ、憐れんで下さいと、自分よりも、イエス様を信頼して、おすがりするのではないでしょうか。

自分は、こういう者であるという理解やイメージを、自己理解または自己イメージと言いますが、この時の弟子たちの共通の自己イメージは、自分はイエス様につまずくことはないと、きっと純朴に思っておったのだと思います。敢えてナポレオン風に言い換えれば、我が辞書に、主につまずくという文字は無いと。まあ本当にナポレオンがああ言ったかは分かりませんが、私たち自身で持っている主の弟子としてのイメージは、どんなイメージが言わば自分の頭の辞書に書き込まれちゅうと思われるでしょう。少し難しい言い方をすれば、これが私だという前提がある。でも、もしその前提が、この弟子たちのように、間違っていて、実際と違っていたら、その前提に続く、だから私はこうするとか、だから私は、という以下に続く部分が、自分の実際とはズレてくる。他で譬えるなら、シャツの一番目のボタンを掛け違えたら、それが前提あるいは自己理解ですが、そしたら、その後のボタンが、だから私はこうする・こうなるというのがズレて、実際の生き方がズレて、神様に対する、また隣人に対する関係や距離の持ち方が、自分という前提からズレていて、自分はこうやっているつもり、で、実際はズレているということが起こる。

自分はと弟子たちは思っている。でもイエス様は、残念だけどそれは違っていると。これまでも言って来られましたけど、弟子たちは、何で、そんなことを言われるのか、自分は…と、主の御言葉が、聖書の言葉が、自分のことにならない。自分と重ならなくて、辞書が書き換わらなくて、違うき、イエス様が間違うちゅうき、聖書が間違うちゅうきと。

それをハッキリ言えてしまうのがペトロの賜物と言いますか、ペトロの選び、主による召しなのだと思います。ペトロさん、私の汚さを代弁してくれて本当にありがとうと思います。やがて父の御国で、ペトロに、あるいは遠慮して遠くから一礼する人は少なくないろうと思います(笑)。そういう意味でも弟子の代表であるペトロまた私たちが、自分ではなく、イエス様が間違っていると思う。イエス様を私は否定らあしません!と言うことで、主を否定してしまう。矛盾。イエス様よりも自分を信じる矛盾。特に、たとえ皆がつまずいても私は!という言葉に強い自分への固執が溢れ出て、まるで掛け違ったボタンを弾き飛ばしてお腹が現れるように、自分を信じる太い自分が弾け出てしまって…。

でもそうやって私たちが自分を信じて主につまずくことに、イエス様はつまずかれません!すべて知って下さっていて、すべてを受け止めて下さっていて、だからわたしはあなたのもとに来たのだから、見捨てに来たのではないからと、決して見捨てないで導き助けて下さる。それが、人となられた神様だという救いの事実に!本当に慰められます。

今日の聖霊降臨日に寄せて言うなら、ヨハネ福音書で十字架に向かうイエス様が「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻ってくる」と、聖霊様によって!わたしが共にいることをあなたがたは知ると言われた(14:18)。それをマタイ福音書では復活された主が、今日の御言葉で言われたガリラヤでこう言われます「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)。

このイエス様を、私たちの頭の辞書に書き込むのです。違うイエス様イメージが書かれていたら、書き換えるのが「悔い改める」という恵み、このイエス様を信頼する救いの恵みです。何でガリラヤに先に行くか?そこでイエス様がこう言って宣教を始められたから。「悔い改めなさい。何故なら天の国、天の父の救いのご支配が、こんなに近づいたから」と(4:17)、神様が私たちを赦すため死にに来て下さった。弟子たちはそのイエス様に出会い、信じ、お従いした。その言わば出会い直しをして、イエス様の赦しは本当に私のためであり、皆のためながやと。自分の事、皆の事ながやと書き直されて、弟子として再出発するのがガリラヤです。

そのガリラヤの約束、主の復活を、でも弟子たちは何一つ尋ねないで、自分が否定されたという意識のみ固執してしまって、そしてつまずいて。でもだからこそ!イエス様は、大丈夫、わたしがあなたと共におるき!自分でなく、わたしを信頼して、わたしについて来なさいと、共にいて下さいます。イエス様ご自身が!信頼できるお方だから、罪人の救いのための全信頼に足る方だから、はいと信頼し、お従いできるのです。